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年の暮れに明治神宮参拝をしました

令和3年(2021年)12月24日、朝、明治神宮に参拝しました。 来年の目標を立てるために、本当の自分の決意を確認するためです。 明治神宮の結界は素晴らしく、鳥居を入った瞬間から心が鎮まります。 代々木の杜(もり)の長い参道を歩くうちにどんどん清明な気持ちに切り替わってきます。 南神門を入り、社殿に拝礼すると、肚の奥から言葉がでてきました。 「私は〇〇を必ず実現する覚悟です。」 それは、そのまま祈りの言葉となりました。 自分は本当に〇〇を成し遂げたいんだ。それが私の覚悟なんだ。 そう、はっきりと自己確認できました。 ならば具体的にやることを決め、持続し、やり遂げるのみです。 おみくじを引きました。 ご祭神でもある昭憲皇太后の御歌で、「謙遜」のお題がありました。 「高山のかげをうつしてゆく水の ひききにつくを心ともがな」 清らかな澄み切った川の水が、高い山の姿を映しとりながら、低く流れていく謙虚な姿を、己の模範として生きなさいという趣旨です。 これは高い理想を貫きなさいということでしょうし、それには心の清らかさと謙虚さが不可欠です、と言われていると感じました。 神社は、本当の自分と出会う最適の場所です。 特に明治神宮のような結界が強い神社では、本当の自分の思いを自覚しやすい。 ここで祈った覚悟は、明治神宮の神々にお伝えしたので、緊張し、身が引き締まります。 成就を願い「心願成就」のお守りをいただきました。 そして「御歌」で心構えをお示しいただきました。 こうした形で神との交流が許されていることは、幸せです。 これからも、節目節目で明治神宮にお参りしていきたいと思っています。

丹田を動かす生活

 丹田を動かすということは、自分の全エネルギーが最もイキイキと発動できる状態にすることです。 肉体のエネルギーと潜在意識のエネルギーの両方を、自分なりにベストの状態で使えるようにすることです。 それは通常、下腹部にある渦巻き状の丹田のエネルギーが、私の場合は右回りに回っている状態でもあります。 丹田が動いている時は、自分が躍動している状態であり、直観が正しく働く状態でもあります。 この状態を創るために、私なりに工夫した朝の習慣があります。 1、近隣の神社に参拝する(帰ってからは自宅の神棚に参拝します) 2、私の誓いの言葉・祈りを唱える 3、君が代を腹の底から歌う(歌手の君が代と一緒に歌うと声が出ます) 4、筋トレをする(椅子をつかったスクワット、腹筋、腕立て伏せ) 5、真向法とストレッチで下半身の筋を伸ばす 6、丹田を意識しての呼吸法をし、自分を白紙にする 朝の時間にこうしたことがたっぷりできるのは、午前中は比較的時間が自由にできるからだと思います。 65歳という年齢にある私は、時間が比較的自由に使えます。 特定の仕事に拘束される時間が少ないからです。 しかしその反面、自分が日々の方向を決めないと、人生が進みません。 進路を決める際に、丹田が動いているかどうかは、決定的に重要です。 自分が自分であり、直感が正しく働かないと、自分が本当に願う人生をイキイキと生きることができないからです。 丹田を動かすための一つ一つの習慣は、いろいろ試行錯誤する中で固まってきたものです。 それらはいままでも触れてきたことですが、順を追って取り組みの内容をひとつずつ書いていきたいと思います。 (次回に続く)

勇気を与えられた本『ブログ飯』

 最近、すごく共感して読んだ本がある。 染谷昌利著の『ブログ飯』だ。 ブログで飯生計を立てる術(すべ)を書いた本らしい、というので読みだした。 著者の染谷さんは1975年生れ。私より10歳若い。 文章がうまく、とても魅力的な人だ。 彼は30歳の時、ブログだけで生計を立てることを決意し、会社を辞めた。 奮闘するも、1年後に貯金が底をつきかけ、万策尽きて撤退を覚悟。 その時だ。 一つのブログがヒットして壁を超えた。 この本には、奥さんと子供一人と猫一匹を、ブログで一つで支えてきた9年間の経験の蓄積が、たっぷりぶち込まれている。 だからノウハウの本かと思うと、実は人生論なのだ。 ちなみに本の副題は「個性を収入に変える生き方」だ。 自分の個性をとことん磨き、しかもそれを収入に変える術と生き方が書かれている。 ブログの技術にとどまらず、「生き方」にまで踏み込んだところがすごい。 いぶし銀色の光を感じた。 ぐいとひかれて2回読んだ。本は線で真っ赤になった。 この本には明確なメッセージがある。それが私に勇気を与えてくれた。  インターネットの世界では、人と違うあなたの個性こそが価値を持つ。  だから個性を磨き続け、個性を成長させ続けることだ。  それが人の役に立つ表現を得た時、人に必要とされ、自分の足で世に立てるようになる。 染谷さんの主張は、説得力があり、心に沁み込んできた。 覚悟も迫られた。 あなたはどこまでやるつもりなのか、本当にやるのか、と。 とりわけ最後の著者の言葉に、胸が熱くなった。勇気が湧いた。   あなたの経験、知識は誰かが必要としています。  あなたの情報を求めている人は必ず居ます。  あなたの声がその人に届くまで、諦めずに続けてください。 この励ましに応える意味でも、私はこのブログを書き続けていきたいと思う。 ( ブログ飯 個性を収入に変える生き方 | 染谷 昌利, 大場ミミコ |本 | 通販 | Amazon )

比較して傷つく心

 何かモヤモヤして、気分が重くなる時、心の中で何かの感情が動いています。 それは何だろうと見つめていくと、ある時、ハッと気づきが生まれることがあります。 それがはっきり見えると、自分の中のモヤモヤが退いていきます。 内からのサインを受け取ったからです。 最近のことです。 エジソンの英語で書かれた伝記を読んだあと、そのモヤモヤを感じました。 その直前に『ブログ飯』という本も読んでいて、そのあたりから兆しがありました。 本の内容には感動しているのに、モヤモヤして暗くなっていく感覚が胸に渦巻きます。 何だろうこれは、何を伝えようとしているもやもやなんだろうか? そう意識して生活していると、ある時、ふっと気づきました。 人と比較して傷つく心だ、と。 エジソンの、どんな挫折や苦難や悲しみがあっても、より一層仕事に打ち込むことで乗り越えていった生涯。 それと比べると、私はいかに立ち止まり、停滞する時間が長かったのか・・・。 また『ブログ飯』の著者が、会社を辞めてブログで家族の生活を支えるまでの努力と比べて、自分の覚悟がどれほど甘かったのか・・・。 そして、人と比較して傷ついていたのです。 では、どうしたらいいか?  傷ついている状態を脱するには、人を比較の対象にせず、学びの対象にすればよい お互いに成長し合うために、異なった個性があるのだから、比較して自分を否定視して傷つくのではなく、学べばいいじゃないか。 でも、それだけでは足りない気がする・・・。 もし、何か自分に足りないものに気づけと言われているとしたら、それは何か。 著者がブログで飯を食えるようになるために、新しいことに取り組み、とことん追求した時の覚悟、エジソンが新しい発明に取り組んだ覚悟、これが足りないと言われている。 覚悟の甘さ、それに尽きる。 覚悟をもってブログを書き続け、自分が発信するもので多くの人のお役に立てるように。

君が代の効果

朝の散歩のときに、君が代を歌うと、歩く姿勢が変わります 君が代は、下腹に力を入れないと歌えません。 だから自然に腰が入り、背筋がピンと伸びてきます。 人間は年を取ると、歩き方が変化します。 とかく腰に力が入らない、ややかがんだ歩き方になりがちです。 しかし君が代を歌うと、自然に姿勢が伸びて腰に力が入った、若々しい歩きに変わります。 若いころに踊りやバレーをやった人は、姿勢がきれいです。 背筋がピンと伸び、下腹の丹田に力が入った姿勢で動かれます。 歩く姿勢も、美しいなと思います。 でもバレーも踊りもできない私でも、君が代を歌うと歩く姿勢が見事に変わります。 自分が若々しく、凛とした気持ちに切り替わります。 これは君が代の効果だと思います。

君が代を歌うと祓える

 君が代は不思議な歌だと思う。 しっかりと君が代を歌いきると、雑念を祓えてしまうのだ。 君が代は、丹田に力をこめないと歌えない。 そうでないと、のどを痛めてしまう。 肚から歌わないと、安定した声が出ない。 丹田に力をこめしっかり君が代を歌うと、体中が熱くなった。 気が付くと全身、汗をかいている。 自分のエネルギーが活性化しているのだ。 自分の丹田が動き出し、個性のバイブレーションが振動したから、雑念を祓えたと思う。 自分が自分であるために、君が代を朝、歌う。 これを習慣化していきたいと思っている。

雑念を払うということ

自分の心の課題をはっきりと自覚して、それを変えようという決意を持ち続けるならば、かならず成長の機会は与えられる。 様々な経験から、私はそう確信するようになりました。 直近で私自身が経験したのは、勉強時の雑念を払うという体験でした。 勉強時に雑念がわいて、集中力が大幅に低下する状態が、数か月続いていました。 勉強中に音楽を掛けたり、ユーチューブのニュース番組を掛けたり、いろいろ飲んだり…。 「ながら勉強」になってしまい、勉強している内容への集中が大幅に低下しているのを感じていました。 雑念が湧いて集中できない状態です。 なぜそうなるのかと見つめると、自分の本能やモヤモヤ、エネルギーの枯渇感を抑えるために、いろいろやっている自分を意識していました。 それを変えようと、本気で思ったのは、二つのおみくじがきっかけでした。 千葉神社でひいたおみくじには「学問 雑念が多すぎる勉学せよ」とあり、3日後、三代王神社では「学問 雑念が多すぎる」と、全く同じ内容が、おみくじに出ました。 これはもう逃げることはできないと観念しました。 でもどうしたらそれが収まるのかがわかりません。 瞑想しても、雑念が湧いて、短時間しか集中が続かないからです。  明治神宮に参拝して、ようやく勉強時の雑念を払えるようになったことを、前回のブログに書かせていただきました。 明治神宮の結界が、あまりにも強いので、私の個性をおおっていた雑念のエネルギーを祓っていただけたと思いました。 明治天皇は、一本の進むべき道をはっきりと見据えて凛として専心打ち込まれ成就される精神力がお強く、それが近代日本を生み出す原動力になったと思います。 その精神力の影響を受けて、私の中にある同様な個性の側面が顕現するようになり、自分でも雑念が祓えるようになったと、そう解釈できます。 明治神宮に参拝した折に明治天皇のお力を他力的に頂くのみであれば、その後も雑念を払うのを持続できないはずです。 しかし、自分の個性にある個性が喚起されてたのであれば、その後も自分の意志で集中できるようになります。 神社は自分自身を見出し自分自身に立ち返るために導きをいただける、大変ありがたい磁場です。 自分の課題に気づき、本気で克服し、成長しようとすれば、その機会は必ず与えられます。 神社は、それを促進してくださる場であると思います。

明治神宮の結界

 武漢コロナがすっかり下火になった令和3年10月下旬、明治神宮にお参りできました. 3年ぶりの参拝です。 武漢コロナが下火になったとはいえ、外国人は一人もいません。 参道を歩く人は日本人だけで、それも数は少なかったです。 明治神宮の大鳥居をくぐると、凛とした空気に包まれました。 参道を歩くうちに、丹田に力が入り、すっくと背骨がまっすぐに立つ感覚になります。 凛とした気分が、私の中にも宿ります。 雑念が除かれて、まっずぐな意思とでもいえるものが、己を貫くのを感じました。 これが明治神宮の結界の力なのだと思います。 明治天皇陛下も、昭憲皇太后陛下とともに、まっすぐに意志を貫かれたお方なのでしょう。 それに私も自然と感化されたのだと思います。 今回の参拝は、凛とした意思で雑念を祓えるようになったことが大きな収穫でした。 私の個性の側面が、明治神宮の結界の力により、ようやく顕せたものと感謝しております。 あらためて明治天皇陛下と昭憲皇太后陛下、更に明治神宮を支えてくださっている代々木の杜(もり)の大地に深く感謝いたします。

おみくじの有難さ

つくづくと「おみくじは有り難いな」、と思う経験をしました。 最も必要な導きを、必要なタイミングで与えてもらえたのです。 家内が病気の不安で、恐怖心を膨れ上がらせていた時のことでした。 知人に電話で相談した時です。 「最近、神社でおみくじは引きましたか?」 と聞かれました。 「いいえ、私が行く神社にはおみくじが置いてなくて」 と家内は答えました。 「そういえば、私が引いたおみくじがあるんですけど、ひらけてみていなかった。」 そう言って開けて読んでくれました。 そこには病気に関する的確な恐怖心を和らげる言葉がありました。 「これ、あなたのために私が引かされたみたいですね。写真を送りますね」 いただいたおみくじの内容は、どれも家内にぴったりでした。 家内は毎日これを読んで、病気検査の結果が出るまでの1か月を耐え忍びました。 私はその間、家内に「心を見つめ、恐怖がおきたらそれを真正面から見つめるんだよ」と励まし続けました。 その間に恐怖心で心が真っ暗にならないために必要だったのが、おみくじの言葉でした。 無事に検査を終え、問題は解決しました。 同時に恐怖心と向き合い続けたことで、家内は心の成長を得ました。 おみくじの言葉が的確なのは、たまたま引いたおみくじが、実は神様かなにかの導きによっていただくからでしょう。 心の成長のために真に必要なものは、必ず与えられます。 おみくじも、その一つです。 おみくじの裏側に「神の教え」というのがあるときは、とても重宝します。 毎日、おみくじに目を通して、同時に自分の心を見つめていると、自分に必要なヒントがはっきり見えてくる場合があります。 その確信が湧くときは、自分の丹田がお墨付きを与えたということでしょう。 こうして身近なところに導きがあることに、感謝します。

自分らしく生きる決意

 私は、私の個性をいかんなく最大限に発揮して生きることを私の人生の目標にしよう。 早朝の神社参拝の帰り道を歩きながら、そういう思いがふつふつと湧いてきた。 自分らしく生き抜くこと、それを今後の人生の目標に定めようと決意した。 65歳の今、人生の後半生を生き抜く目標として、それが最もふさわしいと思える。 私は一つの個性だ。 宇宙のエネルギーが私という個性を生み出した。 この個性は私が磨き、発揮しない限り、誰も輝かすことはできない。 一つの個性は様々な個性と織りなし合い、宇宙全体のハーモニーを創りだしていく。 それを輝かし発揮することは、私の責任であり同時に最大の喜びだと思う。 私の個性が発揮できていれば、他の個性の発揮をも促す働きをするだろう。 これは日々の目標であり、人生の最終目標でもある。 これを私の誓い、そして私への誓いとしたい。

神社参拝の恩恵を受ける

 この一か月間は、毎朝近くの神社に参拝してから、一日を始めることができました。 ささやかなことですが、それでも毎日続けるということは、一つの達成感です。 朝起きて、なんとも体が重いときがあります。 自分を鼓舞して玄関に出て、そこから足を引きづるようにして歩きます。 年を取ったなと感じながら、それっでもゆるい傾斜道を登り鳥居をくぐるとほっとします。 祈りは参拝できることへの感謝から始まり、家族や公のための祈りを捧げます。 特に今の時期は、オリンピックの成功と新型コロナの終息は願わずにはいられません。 帰路はやや下り道ということもあるのですが、足取りが軽いのを実感します。 体の重さがだいぶ軽減され、本来の自分の歩き方に戻っているのです。 帰宅しても、自分が意思した動き方ができます。 自分をコントロールできているということは、嬉しい感覚です。 朝を参拝で始めたことで、コンスタントに仕事と勉強の生産性を維持できました。 体調も心境もあまりぶれることなく、淡々と過ごせ、ありがたい日々でした。 朝を神社への参拝から始めることで、自分が自分として過ごせるのを実感します。 この恩恵に浴せることは、しみじみと有り難く感じられます。

神社参拝の日課

 私の住まいの近くには3つの神社があり、もう少し歩くと4つになります。 一念発起して、毎朝、早朝に歩いていずれかの神社に参拝するようになりました。                (狛犬は神社ごとに特徴があり、見るのが楽しみです) 毎日続けて実感していることは、心の切り替えがすごくしやすくなったことです。 過去の思いのエネルギーに押し流されにくくなり、「今日は自分がこうしたい」と思う方向にスイスイ体が動くのです。 それも軽く動けるのです。 過去の思いのエネルギーは、どうしても昨日までの自分を引きずる方向に働きます。 本当ならすぐのこの仕事をしたいと思っているのに、ぐずぐずと気晴らしをしたり、とにかく切り替えに時間がかかっていました。 これが今までの自分です。 でも参拝すると、体が軽く感じたり、取り掛かるべきことにすぐにとりかかれるので、非常に楽なのです。 ダントツに生産性が上がります。 これが本来の自分なんだな、ということを感じられてうれしくなります。              (これは日ごろ参拝するのとは別の神社です) 神社はもともと、自分ならざるエネルギーを祓って清めてくださる場所です。 そのために本当の自分と向き合える場所でもあります。 祓われるエネルギーの中には、他人から受けた想念以外に、昨日までの自分が持ち越してきた雑想念も含まれています。 それが祓えるので、「 白紙の自分 」で一日を始めやすくなるのだと思います。 神社では毎日お賽銭をあげて、感謝をし、国のため人のため家族のために祈って、自分が実現したいことを思います。 早朝神社へのお参りから一日を始めることで、神道のエネルギーをいただいて一日一日を回転させていこうと、そう決めました。 自分の家の神棚は、お参りのあとにお祀りするようにしています。 きびきびとやるべきことに取り掛かれて、効率が上がってきているのは、人生が充実してきていることです。 それがとても嬉しく心地よいのです。 神社を守ってくださるご先祖様、地域の皆様、そして神社を磁場として働いて下さるご祭神、土地神さまに感謝申しあげます。

隣の人の思考が移る

 ふと思いつくことは、本当に自分が単独で思ったのかことなのでしょうか。 隣の人の思いが移ってきた思いじゃないのだろうか。 そんな可能性を考えないといけないと思う出来事がありました。 私は働いているパン屋の商品棚の前に立っていました。 「このパンを数個セットで売ってほしいというのが本社からの要請だが、一人暮らしの老人のことを考えているのだろうか? やはり一個売りは無くしてはいけない。」 そんなことを考えていると、隣に立っていた年配の女性が話しかけてきました。 「これは冷凍庫に入れれば数日持ちますか?」 「ええ、冷凍庫に入れれば日持ちがしますよ」 そう私が答えると、 「じゃあ4個入りをいただくわね。一人暮らしなものでね。いっぺんに何個も食べないからね」 と言いながら、パンを買い物かごに入れました。 そこでハッとしました。 先ほど私の心に湧いていた思いは、元はこの女性の脳裏に湧いた思いだったのじゃないか。 それを自分が映しとって、考えていたのかもしれない。 隣の人の思考が私に移ってきた可能性は高い。 この女性が話しかけてくださったので気づけたが、無意識に誰かの思考を映しとって考えていることはよくあるのかもしれない。 逆に、私が思っていることを、一緒にいる誰かが映しとってしまうこともあるに違いない。 どんな気持ちで仕事するかは、しゃべらなくても、職場のみんなの思考に影響しているはずだ。 私の思いが職場の人や家族に移っていくとしたら、私が考えていることには責任が発生します。 また私が考えていることは、誰かの思いではないかということも、常々点検が必要です。 一緒にいる人とはエネルギーがつながって相互に作用しあっている。 それがありのままの私たちの姿なんだと、しみじみと気づかされました。

焦りにあおられる

 小さな失敗が、いくつか起きた。 それを点検すると、焦りの心があるときに起きている。 昔も、焦りでつまづいているが、それがまた出てきたのか? 小さな失敗の一つは、実家に荷物を送った後、すぐに実家の家族にラインを送ったこと。 家内は一緒に文面を考えて送りたいと言っていたのに、勝手に、先走って、怒られた。 私は荷物を預けた後、「すぐ連絡しなくちゃ」と焦って、歩道に立ってラインしていた。 その時ちらっと家内の言葉はよぎったのに、せかされ煽られるようにラインした。 考えると、焦りの中にあるときの思考は、それ自体が微妙に狂っている。 その思考のどこが悪いかと考える前に、そもそも焦っている自分は何かを見るべきだ。 一刻も速く、家族に伝えたかったのか? でも、どうして?  荷物は明日つくから、今晩ラインしても十分間に合う。 家内が買ってくれたものも送るから、一緒に思いを伝えた方が良い。 なのに一人で先走ってしまうのはなぜ? なぜ待てないの? 子供がすぐに誰かに知らせたくなるように、はしゃいだの? 確かに、私にはそういう傾向はある。 だが、焦った段階で、焦りに煽られていたと思う。 ほら急げ、もっと急げ、急がないと間に合わないぞ! なにかそういうささやきのエネルギーが来ていたと思う。 そしてそれに操られて行動していた気がする。 株を買う時も経験した。 家内は、いま急に上がったから、また下落するから待てと言った。 私は、もっと上がるんじゃないかと焦って買った。 次の日から下がりだした。 数日後に株価が持ち直したからよかったが、ここでも家内ともめた。 焦りにあおられて招いているのは、家庭の不調和かもしれない。 焦りに煽られると、自分が自分でなくなる。 家庭の調和が崩れる。 その結果、エネルギーをロスしてしまう。 焦ったときは、「それは本当に私の思いなの?」と踏みとどまるべきだと思った。 焦りを取り除いた後に、もう一度同じ結論が出たら、そのときは実行すればよい。 煽られて何かするのはやめよう。 自分が自分でなくなっているから。

変化する意志

 人は生きている限り、変化し続ける。 変化しなくなったときは、死ぬ時だ。 死ねば人は固まる。 固まっている時間が長くなることは、それだけ死に近づいているということだと思う。 年を重ねるごとに、変化するには意志と努力が必要になる。 年を取ればとるほど、新しいことに取り組むことで、変化を促す必要があると思う。 振り返ってみると、英語を学び始めたのが4年前。 パン作りをはじめ、パン屋さんにアルバイトし始めたのが3年前から。 走り始めたのは1年前。今はペースを落とした分、筋トレを加えている。 宇宙物理学の本を読み始めたのが1年前から。 投資を勉強し始めたのは、まだ最近のことだ。 次第に関心の領域が広がり、視野の拡大は楽しい。 何より未来設計が豊かになってきた。 いろいろな選択肢が生まれ、こうなりたいという願望が芽生えている。 とても幸せだ。 特に体力の維持・増強は年を重ねると必須事項になってくる。 健康が維持されているからこそ、いろいろチャレンジできていると思う。 意志あるところに道は開ける。 これは菅義偉総理大臣の座右の銘だが、私もそれを信じる。 腹筋百回が菅総理の日課と聞いて、私もそれに近づく努力をしているところ。 今日は56回まで来た。(一日1回増加) なぜ変化したいのか。 自分がもっと成長したいからだ。 変化は、成長するための必要条件だと思う。 そして個性がより輝く方向への変化が、十分条件だと思う。

走るということ

 走ることは、カラダの欲求でもあるが、精神の欲求でもあると感じるようになった。 それは、走るのをやめ、歩くだけにして3か月ほどしてから感じ始めたことだった。 3か月前、1年以上続けてきたランニングをやめたのは、膝に痛みを感じたからだ。 膝が痛むと歩き、しばらくしてまた走る。 そんなうちに、寒さが増し、走るのが億劫で仕方なくなり、歩くだけにしようと思った。 走るのをやめるとほっとした。 ところが2か月もしないうちに、体に少しずつもやもやが溜まってきたように感じだした。 いままで走ることで祓っていた何かが、カラダに滞り溜まっていく感覚なのだ。 これはやばいかもと思いだし、再び走ることにした。 もっとも毎日は続かないので、休みの日だけ走ることにした。 それでも、走るとすっきりする。 汗をかき爽快になるとともに、体も心も軽くなるのがわかる。 途中、神社に参拝したりするので、なおさら軽くなるに違いない。 走っている途中はあの角まで走ろう、あの坂道の上まで走ろうと、心の中で、小さな目標を決めてそこまで走る。 走り切ると、次の目標を描いて、また走る。 その繰り返しは、小さな達成感の連続で、軽く走れる気がして楽しい。 走り終えた達成感と、汗をかいて着替えるときの気持ちのよさは、自分へのご褒美だろう。 走り終えると自分がリセットされて、元に戻る感覚がある。 意欲が出て、前向きになっている。 自分を変えようと努力している自分が、嬉しくもある。 走ると体重が下がることは経験則で知っている。 自分らしくあり続け、いい仕事がいつまでもできるように、走り続けたいと思っている。

体を鍛えることと心を鍛えること

 私は令和3年の2月現在で64歳です。 今年の5月には65歳を迎えます。 加齢とともに、身体の及ぼす心への影響について、実感することが多くなってきました。 一番顕著なのが、朝起きて体が重いときです。 なかなか動く気になれなくて、椅子に座ったまま本を読んだりして時間が過ぎていきます。 読書が進むので悪くはないのですが、カラダは固まっています。 自分の意志が強く働かず、カラダにずるずるひきずられている感が否めません。 そんな時でも、重い気持ちを説得して筋トレに取り組むと、短時間で気分が一新します。 今朝は、腹筋43回、背筋43回、腕立て伏せ43回、3キロのダンベルでの腕のトレーニング左右各43回、スクワット80回、それと真向法にストレッチです。 気分が一新して、自分の主体的な意志で行動を始められます。 なによりもカラダに引きずられる感が消えています。 筋トレは、筋肉を鍛えますが、心の筋肉も同時に鍛えるようです。 意志力が全然違ってくるのを実感しますし、前向きになります。 十年ほど前ですが、なかなか自己変革が進まず、進んだと思っては元に戻ったりを繰り返していました。 それが大きく変わったきっかけは、体質改善に取り組んだことでした。 食事、睡眠、運動を見直し、少しづつ不可逆的に変えていったところ、気持ちも大きく変化しました。 この時はっきりと、心が成長し自分が変わっていっている実感を持ちました。 体を鍛える整えることと、心を鍛え整えることは、一体のことであると思います。

激しい承認欲求について思うこと

私たちには、認められたいという欲求が強くある。 特に若い間は、その欲求はとても強い。 年を重ねると、露骨には出ないかもしれないが、やはりそれはある。 欲求は願望を伴ったエネルギーだ。 そのエネルギーは、学業や仕事やスタイルやファッションの追求の原動力になる。 また目立つ行動を突き動かす源にもなる。 それはしばしば激しい衝動となる。 得ても得ても満足をしらぬ渇愛ともなる。 承認欲求は、自分の価値を認められたいという欲求だ。 同時に自分の価値を証明したいという欲求でもあると思う。 自分の価値が周りから認められると同時に、自分で自分の価値を確認し納得したいのだ。 なぜ自分が納得したいのか? それは、「自分の価値を否定し、疑問を持っている自分」がいるからだと思う。 自分の内面に深く食い込んでいる自己否定を、実績や称賛によって打ち消したいのだ。 自己否定の原因は、劣等感や挫折の経験かもしれないし、罪悪感かもしれない。 何か自分の価値を否定する気持ちが強く働いているのだ。 それはしばしば自己否定の言葉として口から飛び出してくる。 だからその人を見ていると分かることがある。 褒められたいんだなとか、認められたいのだろうと感じるが、 本当は自分が自分を肯定したいのだと思う。 それだけ強い自己否定をその人は抱えて生きているのだ。 それが苦しいのだ。 自分への自己否定の苦しみは、外からの賞賛や認知である程度やわらぐが、しばらくするとまた傷口が疼(うず)きだす。 自分の存在そのものが価値ある個性であることを、自分自身が受け入れない限り、それはおさまることはない。 問題の根本は「自分という存在の価値」を、自分自身が認め、受け容れるかどうかだ。 宇宙が生み出した唯一の、かけがえのない価値ある「個性」、それが自分という「存在」なのだと、自分が自分を受け入れるかどうかだ。 もし、周りがその人を支援できるとしたら、その人の行動や実績だけではなく、その人の存在を認めてあげることだと思う。 その人を、価値ある個性として受け容れることであり、その個性に敬意を払うことだと思う。 自分の存在の価値を受け入れることができたなら、人は晩年もおだやかで満ち足りた気持ちで生きることができるだろう。 同時にその人は、周りの人の個性を尊び、存在を価値あるものとみなすので、まわりの人々を穏やかにしていくだろう。

オリジナルを追究してみたい

 自分のブログについて振り返ってみて、 自分のオリジナルの思想がないかもしれないと、 反省の思いが湧きました。 権威ある思想や、信頼できる人からのサジェスト、 それがあると安心して書けるが、 自分の想いだけで書くのをためらう気持ちを感じてきました。 オリジナリティを打ち出すことが怖いのかな、と思いました。 しかし、その奥に何かある気がします。 ふと、自分の直感に従うことを怖がっているのでは、 と気が付きました。 直感は、自分の心から湧き出るものであり、 誰か権威ある人が言ったからとか、 どこかの専門者に書いてあるものではありません。 直感に従うことへの恐怖心は、 自分の心から湧き出るものをそのまま書いたり、 それに従って行動することへのブレーキになっているようです。 なぜそんなに恐怖を感じるのでしょうか。 自分の直感を信じて行動したことで、自分が窮地に陥った経験があるのかな? 過去世でそういうことがあり、それが魂の傷になっていて、 今なお恐怖心が出るのかもしれないな。 自分の直感に従うことが怖いから、 誰かの権威をよりどころにしたくなったり、 多くの知識を集めて慎重に行動したくなるのかもしれないな、・・・。 何とも言えない胸のあたりでざわめく恐怖心の感覚は、 そうに違いないと教えているようです。 だったらどうするか。 自分の直感に従って、自分の独自の言葉でブログを書こう。 その時に出てくる恐怖心があれば、それと向き合い、対決しよう。 そう決めて、このブログを新しい内容で、再開することにしました。

自分の個性を感じるということ

 神社にお参りすると、くっついているものがはがれる。 すると、自分が自分らしくなれる。 そういう経験を何度もするうちに、 自分の個性について考えたことがあります。 一ケ月ほど前、御嶽神社へお参りしました。 自分の個性を教えてください、とお祈りしたのです。 ふと神社の上を見上げると、青空があります。 「すがすがしいな~。なんてすがすがしいんだろう。」 すがすがしいというのはこんな気持ちなのか、 と圧倒されるようなすがすがしさのボリュームを感じました。 先日のことです。 久々の休みに、一駅分歩いて誉田八幡神社へお参りしました。 神社へのお参りが終わって帰る道すがら、すがすがしいという気持ちが胸にあふれてきました。 普通の街並みを見て歩きながら、「すがすがしいな」と感じていることに気づきました。 二度の経験で、自分の個性は、このすがすがしい気持ちかもしれないと思いました。 もう1年以上前になると思うのですが、 自宅からずっと数キロ歩き通して参拝したある稲荷神社でのことです。 私の個性を教えてくださいとお祈りしたところ、 間もなくあるイメージが浮かんできました。 稲穂が黄金色にたわわに実っています。 そこへ一陣の風が吹いてきて、稲穂についている虫などを吹き飛ばしてくれます。 この時も、青空が広がっており、すごくすがすがしい感じがしました。 このイメージが、祈りへの回答だとすると、 すがすがしさは、風のようにくっついているものを吹き払う働きを併せ持つことを 暗示していると思いました。 このイメージのことは忘れていたのですが、 先日の誉田八幡神社でのお参りのあと、思い出しました。 私の誕生日は5月初旬です。 その少し前の、4月下旬のころの気候は、「清明」と形容されます。 少し暖かくなりかけて、さわやかで、澄み切った空気の感覚が、清明です。 私にとってのすがすがしさの原型は、清明という感覚です。 本当にこの季節が大好きで、心が清明な空に吸い込まれるような気がします。 私の個性がもし、清明を原型とするすがすがしさだとすると、 私の個性が発揮できれば、周りもさわやかに明るくなるし、 自分もわだかまりのない、すがすがしい心で毎日が過ごせると思えます。 自分が自ら足を運んでつかんだこの感覚は、 是非大切にしていきたいと思いました。