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1月, 2019の投稿を表示しています

コンプレックスを見つめる

理想像とコンプレックス 理想像というのは、往々にしてコンプレックスそのものを表わすことがあるようです。 私が気づいたケースをとりあげてみます。 私は真理を求め道を求めるものは、個人の生活上の欲求について、時に経済的なことについて求めてはならないという規範――こういうとよく聞こえますが、要するに狭い縛りがありました。これは中学時代からありましたので、結構根が深いものです。 この理想像は、経済的な才覚に乏しいことへのコンプレックスと表裏一体であったと、今は思います。そしてそれが依存体質につながることも、はっきりわかります。 私の故郷の滋賀県には、中江藤樹という戦国時代の末期から徳川時代の初期にかけて生き、日本の陽明学の祖で近江聖人といわれた儒教家がいました。 この方は儒教に実践するべき道を追い求めて、士官の道 ( 今でいう会社勤め ) をリタイヤして、地元で母親を支えながら道を求め、人々を教えて日本的な儒教の道を確立しました。 この方の住居跡を見学したことがありますが、そこで初めてここで酒を売りながら生計を立て、そのうえで道を求めていたことを知りびっくりしました。中江藤樹は表向きの商売として、アルコールの 小売業をされていたのです。それで生計を立てたうえで、道を求め、また請われるままに人々を教えたりしていたのです。 そこには自立精神がしっかりとあります。仏教者のように信者の御布施で生きたり、誰かに経済的に頼ったりする依存心がありません。 もっとも私には経済生活への苦手意識があるだけではなく、道だけを求める生活や高邁な理想を求める生き方がかっこいいことだというようなプライドが潜んでいたと思います。それがあるので、学生時代からアルバイトの経験すらなく、経済活動を毛嫌いする気持ちがあったのです。プライドにひっかかって自縄自縛に陥っていたのです。 だから地に足の着いた生活をなかなか追い求めようとする気持ちがわかなかったのだと反省しています。 そう反省し、地に足をつける努力を始めると、こちらの方がはるかに自由ですし、かつ道を求める努力も真剣みが増してきたように感じます。 プライドやコンプレックス、それが表裏一体となったような理想像や規範意識は、自分の成長を止めたりゆがめたりしてい

身体の声を聴くということ

身体の声を聴くということは、体調を維持するうえでは非常に重要です。 それはなにも難しいことではなく、自分の身体の感覚に注意深く意識を向けて、自分の状態を理解することです。 これは極めて初歩的ですが、この初歩的なことこそが一番大切なのだと気付くことがありました。 これは、血糖値を下げる格闘のなかで気づきました。 血糖値の変動は膵臓の機能と深くかかわっています。膵臓がインシュリンを出すからです。インシュリンが出ると血糖値は下がります。しかし、これを出し過ぎると、膵臓が酷使されるので、膵臓は疲れます。 膵臓が疲労してくると、私の場合は、左の背中というか、わき腹近くというか、そのあたりが固くなってくるような違和感を感じます。少し痛いようでどこか固まっている感じがするのです。 これが食べ過ぎたり、糖分を摂りすぎたときに、体に感じる違和感です。 これが一番自覚しやすい、糖分の取りすぎを警告する身体のシグナル ( 声 ) でした。 そうすると、いままで頭で考えて食べものの量を調整しても、もっと食べたいという思いと葛藤していたのが、変わりました。身体が糖分を食べることにストップをかけているこのシグナルを感じ取ったら、これはやめざるを得ません。それを無視すれば、苦痛が待っているだけですから。 今までは病院へ半年に一度行き、検査して自分の状態を判断していました。 半年に一度です。 かたや身体のシグナルに注意を払うのは、毎日、いつでもできることです。 この差は大きいと思います。 最近、 A 型インフルエンザにかかりました。これは私としては珍しいことで、 10年以上インフルエンザに罹ったことがなかったの、正直驚きました。 職場の事務所に罹患者が出ていたので、感染したようです。 その数日前から妙な、感じたことのない違和感を、身体に感じ出しました。 首から頭にかけての筋肉が、妙に固く痛みを感じるようになったのです。そして頭も少し痛みます。 ほぐすと少し和らぐのですが、完全にはとりきれませんでした。 その数日後にインフルエンザが発症したので、おそらくあれはインフルエンザの発症する前の、潜伏期の反応だったのではないかと思います。 治療を受けてインフルエンザの症状がおさまると、この痛

深刻な経験の意味

思考が回らなくなる時 私がリストラで仕事を失った「中年の危機」の時期、私はバカになったと思いました。というのは思考が回らなくなり、記憶力が低下し、今までできたことができないのです。私は無気力と無力の深い穴に落ち込んでいきました。その穴から這い上がるには長い長い年月を要しました。 その頃の私のエネルギーの状態はというと、あくびを出して眠そうですぐに固まってしまうのです。動作はすごく緩慢です。パワーなく、思考も回らず、記憶がつながりません。 ただし、今現在の感情は分かっています。喪失感、挫折感、悲しみが深く、みじめです。希望がなく、自分の今までを否定し、未来も見えません。 ひどいうつ状態で、本当に思考が回らないバカになった自分を経験しました。 その時の思考能力は、 A から B が生まれ、 B から C が生まれるという流れは分かるのですが、 A と C がつながらないという感覚です。プライドが高いので、この状態はよけいつらいもので、自分と向き合うことが困難でした。 過去世とのつながり 今世において特徴的な経験は、実は過去世の魂の傷の再現であり、それを乗り越えるために体験することが少なくない。私はそう感じます。 過去世において、たとえば脳に何らかの損傷を受けて、思考が回らなくなり、自分がみじめになって固まってしまった経験としたら、どうでしょうか。 もしその時に、自分がバカになったのは、脳に損傷を受けた結果であり、自分の価値がなくなったわけではないと冷静に自分を受け入れられていたら、固まる必要はなかったと思います。 しかし、それをもって自分が駄目になったと思い、自己否定に陥ったから、固まってしまい、魂に深い傷となって残ったのでしょう。 その時の魂の傷は、今世まで持ち越され、ある事件をきっかけにその心の状態が再現されます。それが、私の 40 歳代に経験した、うつ経験の意味ではないかと思うのです。 うつ状態に陥った自分を見つめると、あれだけ真剣に学び、思考を鍛えたはずなのに、今ここには何もなせない惨めな自分があるだけだ、という惨めな現実です。 「今までの一切の努力は無駄だった。本棚を埋める膨大な蔵書が、かえって惨めで無力な自分を際立たせる。自分の人生にはどんな意味があったのか。無だ

初日の出を拝む

今年、平成最後の元旦に、初日の出を拝ませていただきました。 高台にある近所の神社に参拝し、そこから東を臨み、太陽の昇りくる光を待ちました。 高台には十数名の若い方、ご年配の方がいらっしゃいました。 太陽が地平線の下から昇ってくる瞬間に、崇高な尊い光が現れてきました。 そして太陽が顔をのぞかせたのですが、その輝きを目にして、宗教的な崇高な思いがこみあげてきました。 これは自然にこみあげてくる感情であり、「尊いな」と感じました。 そして「ありがたいな」と思いました。 今年も太陽が照らしてくださり、私たちの地球が生命溢れる星として活き活きとした活動を続けられるのです。 日本では太陽神を天照大神として崇拝します。 したがって、日本人である私たちのこうした思いは、天照大神に通じていくのだと思います。 私の少し後ろには、初日の出に手を合わせる年配のご婦人がいらっしゃいました。 拝むという行為は、ごく自然です。 私も手を合わせ、首を垂れ、感謝を捧げました。 一年の初め、一日の初めに宗教的な崇高な気持ちをもってスタートさせていただけることは、本当にありがたいことだと思います。 今年もブログを続けて参ります。 私が肌で感じ取り、実感して考えたことを書いていきたいと思います。 私の個性の発露であるようなブログになることを志していきたいと思います。 本年もよろしくお願いします。 種村修   ( 心理カウンセラー・種村トランスパーソナル研究所所長 ) ご案内:メールでのカウンセリングを行っています。 メールアドレス: tanemura1956@gmail.com