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感情の重要性と隠ぺい④…隠す別の理由

感情を隠す理由として、「感情の重要性と隠ぺい①」で自我の防衛機制という話をしました。 その具体的な実例として、正義を旗印にすることで怒りの感情を隠した私の体験を②で紹介しました。この時には怒りの奥に恐怖心があり、怖いから無意識に感情を隠してしまったという経験を書きました。 実はこのほかにも注意を払うべき要因があります。 その一つは 憑依 、別の言葉でいうと「 のりうつり 」です。 憑依してきたエネルギーは自らの存在を知られないようにしようとする傾向があります。そこで、自分が知られるきっかけとなる感情を隠そうとするのです。 ですから、感情が見えない時、憑依を疑う必要があります。憑依には死者のエネルギーもありますが、生きている人のエネルギーが来ていることも少なくありません。これは生霊と呼ばれることがありますが、よくあることです。 たとえば誰かが気になって仕方がない時、その人のエネルギーが憑依していることがあります。それはその人が憑依しようとしてするのではなく、その人に頼りたがっていたり、その人をずっと気にしていたら、自分のエネルギーが相手のところにいくのです。これはほとんど無意識の作用です。 一方、憑依された人は、来ている人のエネルギーを感じるので、なんとなくその人のことが気になったりします。または気にしていなくても、発想や思考や行動パターンがその人に似てきます。 こういうケースでは、自分がいつもの自分と違うはずなので、そこで立ち止まって普段と違う自分を自覚して、憑依の存在を検討する必要があります。誰が来ているかを見抜けば、たいていは離れます。その人のエネルギーに対してお引き取りくださいと、心の中でいえばいいのです。 ただし、強く恨まれたりしている場合だと、簡単には外れません。その原因を作った自分の行動を反省し、お詫びをして自分の思考と行動を変える必要があります。自分が変われば波長が合わなくなり、外れていきます。 感情を隠す理由の二つ目は、 過去世の個性 です。 たとえば自分の過去世の個性が自分を隠したがっている場合、その個性が顕在意識にまで出てきていると自分を隠そうとするので感情が見えにくくなります。 なにかその過去世の個性が心に深い傷を抱えている場合に、そういうことが起きる場

感情の重要性と隠ぺい③…サインとしての怒り

前回、 怒りをエネルギーにして働くと、やっている最中は燃えていて生き生きしているように錯覚するが、あとで疲れが出て燃え尽きる という話をしました。 怒りの最中は燃えているので、そこに内包している自己否定については何も気づけません。一歩引いてサインと見たときに、怒りは気づきに変わります。 怒りはサイン です。 怒りは「 裁いている心 」のあることを告げています。 怒りの奥には、 自分を裁きたがっている心 があるのです。 要するに、「 自分の中に自分を裁いている部分があるからそれに気づけ 」というサインなのです。 ちなみに、怒りで燃え尽きるということは自己処罰の結果とも言えます。また怒りで相手に食ってかかると、お互いに燃え尽きます。大変な消耗ですが、これも自分を裁いた姿でもあるでしょう。 話を私の体験に戻します。 知り合いの裁判に、私に関するうわさ話がジャーナリスト A 氏の陳述書で出されており、それへの反論に対する A 氏の再反論の陳述書も読みました。そこには「社会的な立場の高い人が言っていた。だからこの話は真実であり信ぴょう性が極めて高いと判断した」という趣旨の言い訳が書かれていました。 その噂話は事実無根で、しかも私に一切裏付けの取材をせず、思い込みだけで書いていることに本当に腹が立ったのです。 A 氏は自分が取材した人物が高い社会的な立場にあるというだけで、それを鵜呑みにして、裏どりもせず書いたのです。こういうことができる神経が信じられませんでした。 しかし、本当の問題はそこにはありません。 それに対して激しい怒りを私が持ったのはなぜかという点こそが、問題の核心でした。 怒りが「自分を裁いている心があることを知らせるサイン」なら、自分の何に対してその裁きが向けられていたのでしょうか。 これを調べる時に役立つのが、心理学で使う「 投影 」という概念です。 「投影」とは「自分」が無意識裡に<自分>に対して抱いている感情を、よく似たものを持っている<他者>に投げかけて、その人に対する感情として感じることです。 もっとわかりやすく言うと、誰かを激しく怒った時、非難している相手と同じものを自分が持っているということです。自分のなかにある「過ち」や「嫌な部分」

感情の重要性と隠ぺい②…怒りと正義

私自身にも感情を隠す癖があることを、自覚させられることがありました。 その時に発見したのは、 <「これが正義だ」と思った段階で、すでに元の感情を自分から隠している。 すり替えることで隠している。> ということです。 「これが正義だ」と思うことで隠した感情とは、 怒り です。 怒りの感情が、正義という思いにすり替わることで、自分がもっている強い怒りの感情に気付けなくなります。 きっかけは、昔の知り合いから、彼が関わっている裁判に陳述書を書いてほしいという依頼を受けたことに始まります。 詳細は省かせていただきますが、私が全くあずかり知らぬところで私の名前が勝手につかわれていたことを知り、それに私が怒りを持ったのです。 その裁判では、私が大昔にある資料の隠ぺいに関わった疑いがあるというような事実無根の噂話を、わたしへの裏付け取材も確認のための電話一本もないまま、唐突に裁判所に陳述書として出されていたのです。 「ジャーナリストを名乗る人間が、裏付けをとらないままずさんな内容を書き散らしているとは許せない。義の為には黙っているわけにはいかない。」 と思いました。 その時に大きく激しい怒りの炎が自分の心の中に燃え上がっていたことには、気が付きませんでした。 実は私は以前、自分の名前を許可なく勝手に使われて、心を傷つけられ、すごくいやな思いを経験したことがあるのです。その際に激しい憤りを感じました。 かつてのその記憶と感情が、この時につながってしまい、そのためによけいに激しい怒りとなったのです。 過去と現在がつながった結果、当時の私は過去の怒りを持った自分の心の状態に戻っていました。つまり、昔の心の状態が、そこに出てきたのです。そして阿修羅のエネルギーとなっているので、敵を求めて荒れていたのです。 このエネルギーの状態のままで、その時頼まれた陳述書を書くと、いたずらに敵を増やし、あらたに争いをまねいてしまう可能性がありました。 怒りのエネルギーが燃えているだけであっても、そういう時には何か自分が生き生きしているような錯覚も覚えるものです。私にはしばしば怒りのエネルギーを原動力にして動いたという経験があったので、その状態に戻ったのです。 怒りのエネルギーを