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感情の重要性と隠ぺい③…サインとしての怒り




前回、怒りをエネルギーにして働くと、やっている最中は燃えていて生き生きしているように錯覚するが、あとで疲れが出て燃え尽きるという話をしました。

怒りの最中は燃えているので、そこに内包している自己否定については何も気づけません。一歩引いてサインと見たときに、怒りは気づきに変わります。

怒りはサインです。
怒りは「裁いている心」のあることを告げています。
怒りの奥には、自分を裁きたがっている心があるのです。
要するに、「自分の中に自分を裁いている部分があるからそれに気づけ」というサインなのです。

ちなみに、怒りで燃え尽きるということは自己処罰の結果とも言えます。また怒りで相手に食ってかかると、お互いに燃え尽きます。大変な消耗ですが、これも自分を裁いた姿でもあるでしょう。

話を私の体験に戻します。

知り合いの裁判に、私に関するうわさ話がジャーナリストA氏の陳述書で出されており、それへの反論に対するA氏の再反論の陳述書も読みました。そこには「社会的な立場の高い人が言っていた。だからこの話は真実であり信ぴょう性が極めて高いと判断した」という趣旨の言い訳が書かれていました。

その噂話は事実無根で、しかも私に一切裏付けの取材をせず、思い込みだけで書いていることに本当に腹が立ったのです。A氏は自分が取材した人物が高い社会的な立場にあるというだけで、それを鵜呑みにして、裏どりもせず書いたのです。こういうことができる神経が信じられませんでした。

しかし、本当の問題はそこにはありません。
それに対して激しい怒りを私が持ったのはなぜかという点こそが、問題の核心でした。
怒りが「自分を裁いている心があることを知らせるサイン」なら、自分の何に対してその裁きが向けられていたのでしょうか。

これを調べる時に役立つのが、心理学で使う「投影」という概念です。

「投影」とは「自分」が無意識裡に<自分>に対して抱いている感情を、よく似たものを持っている<他者>に投げかけて、その人に対する感情として感じることです。

もっとわかりやすく言うと、誰かを激しく怒った時、非難している相手と同じものを自分が持っているということです。自分のなかにある「過ち」や「嫌な部分」に気が付かないか、見ないことにしていると、それと同じ「過ち」をしているように見える人や同じような嫌なものを持っている人にたいして、激しい怒りを覚えるのです。
しかし、その怒りは、本当は自分自身への怒りなのです。
要するに、自分が観たくない自分の中の「過ち」や「嫌な部分」を、誰かに「投影」するのです。

この投影の原則に照らして反省すると、潜在意識が私に対して怒りイラついていたのは、わたしに「権威ある人の言葉であれば、それを自分で検証せずにそのまま鵜呑みにして使う」という癖があったからです。自分のなかにあるA私的な行動パターンに対してイライラしていたのです。同じものが自分のなかにあるのでイラつき怒っていたのです。

私はこのことに気づいて、普段の思考の組み立て方に問題があったことを知りました。
私は人のものを使って思考を組み立てていました。
たとえば昔の賢人や高名な学者の意見は、すっかりそれに寄りかかっていたのです。
それに対して、
それを自分が確かめたうえで使っているのか?
と、潜在意識が強く私に詰問しきていることを知りました。

私たちは思っていること、分かっていることが自分のすべてと思いがちです。
しかし、分かっていることと、分からないことの両方をひっくるめて自分です
分かっていることというのは顕在意識であり、分からぬことは潜在意識です。両方を知らないと、自分を知っているとは言えません。
だから潜在意識の思いに気づくということは、非常に重要なことです。

さて、もう一つ、怒りをもって知人の裁判に関われば関わるほど、昔の自分に戻っていくので、これも潜在意識が嫌がっていることでした。潜在意識は怒りを燃料にしていた昔の自分にもどされることを嫌がっていたのです。

そこで私の出した結論は、知人のためにA氏の弁論を覆す陳述書は書くが、昔と同じような気持ちでは関わらないということでした。気分の気づきのために起きてきた事件だと思って、冷静に淡々と事実だけを書くことにしたのです。
何か書くとき、何を書くかかという以上に、その時にどういう気持ちや心境で書くかも大切です。

いずれにしてもこの気づきを通して、私は権威あるものに無条件によりかかっていた自分の思考のくせを直すことに取り組み出しました。知識として学んだことより、自分が経験し感じ取ったことを大切にするという姿勢へと転換するようになりました。

種村修 (種村トランスパーソナル研究所・心理カウンセラー)
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