スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

2019の投稿を表示しています

のりうつりのエネルギーをはがす方法

生霊とか死霊とか、さまざまなエネルギーがのりうつり、つまり憑依する現象があります。 よくよく観察していると、自分であって自分ではない状態というものがあります。 自分はこういうことを普段しないのに、急にしたくなったとか。病院へお見舞いに行ったら、突然病気や死が怖くてしかたがなくなったとか。普段愚痴を言わないはずの人が、誰かと会ったあとでとめどのなく愚痴を言いだしたとか。 これらは誰かのエネルギーの営業を受けて、自分であって自分でない状態が起きているのです。 自分が普段と違う状態になっている時、誰かのエネルギーをかぶっていないかどうかを、まず見ていく必要があります。 憑いているエネルギーというのは、見破られると憑いていられなくなります。ですから、憑いているものはばれたくないので、自分を隠そうとします。 それを見抜くためには、客観的に冷静に自分を見つめることが必要です。 相手のエネルギーがくっついていると、その方の特徴的な言動や思考の癖が、無意識に自分に出ます。それが自分本来のものでないのなら、くっついている可能性が高いです。 こういう時は、「くっついたな」と見破り、「お引き取りください」と心で思えば、普通は離れていきます。 つまりこれは自分とは違うエネルギーだと認識すると、そのエネルギーと自分との間に境目ができて、分離できるのです。 それを認識しないで何でもひとくくりにして自分だと思っていると、憑依しているエネルギーの影響は取れません。 もちろん、自分に出てくる不都合な思いや言葉や行動が、すべて他の影響であるとだけ見るのは、責任転嫁になり甘えにもつながるので、注意は必要です。そういう警戒は必要なのですが、自分以外のエネルギーをまず分離しておかないと、自分の思いが何なのかが見えてきません。自分を変えることもできません。 くっついてきたものを分離した後は、自分自身を点検します。 どういう原因でこの思いや言動が出てきたのかを振り返ります。 原因が見いだせれば、その時の感情をしっかり覚えておきます。同じ感情が出たら、自分のなかでアラームが鳴るようにしておくためです。そうすることで再発を防げます。 くっついた原因が、依存する気持ちである場合もあります。 自分が誰かに依存していると

同じパターン

私たちはよく同じパターンで失敗や停滞を経験しがちです。 もし同じパターンに陥ったと思ったら、 ここからどうすれば成長となるかを考えましょう。 「また同じパターンにはまった。自分はダメなやつだ。」 と自己卑下をするのはやめましょう。 こういう時に感じる不安は、 自分の力のなさを認識することへの恐れから来ます。 「こんなに修行(自己改善の努力努力のこと)したのに力がない」 そう思うと無気力になります。 すると停滞に入ります。 同じパターンに入ったという気づきは、 智慧の働きです。 「ここからどう成長するか」 この問いかけによって梯子を伸ばし、 穴から出ましょう。 種村修   ( 種村トランスパーソナル研究所・心理カウンセラー ) お気軽にご意見ご感想をお寄せください。 メールによるカウンセリングも承っております。 メールアドレス: tanemura1956@gmail.com

恐怖心

恐怖心は消せないです。 でも理解すれば、 恐怖する前の気持ちと結びつくので、 恐怖に固まらなくなります。 丹田の声を聴きたくないという思いの原因はなんでしょうか。 丹田の思いを感じ取って、手痛い目にあい、 恐怖に凍りついた記憶、潜在意識下の抑圧です。 丹田を感じ取ることが怖いという思いを感じ取る必要があります。 私というエネルギーは、 もともと何を大切にしていたのでしょうか。 それを永い転生の中で忘れ去って、 恐怖、恐怖とやっているのでしょう。 だから恐怖に固まる前の心とつながる必要があるのです。 根源の自分が、今の自分に何を求めているのか。 覚悟を決めて自分の根源の思いに向き合う。 その覚悟が、自分を変える力となります。 種村修   ( 種村トランスパーソナル研究所・心理カウンセラー ) お気軽にご意見ご感想をお寄せください。 メールによるカウンセリングも承っております。 メールアドレス: tanemura1956@gmail.com

立場で人を見ない

人を序列や立場で見ると、人の心が見えなくなります。 だから、 人を立場で見始めたら要注意 です。 私はというと、高校生の時、テストの順位が壁に張り出される環境に置かれ、人をテストの成績順でみる見方を身につけてしまいました。 大学に入ると、人を大学や学部で序列化してみるようになりました。 社会に出ると、地位・ポストや業績の優劣で見るようになりました。 このように常に人を序列や立場で見て、自分が相手とくらべて上か下かを意識するような意識でした。ですから人の心は見えなかった・・・。 これが中年を過ぎると勝組か負け組かというような見方も加わってきました。 もっとも自分は後者だ思い、落ち込んで自己卑下をしていたわけですが。 こうした見方をようやく離れて、 個性を平等に見て尊べる ようになったのは、還暦を過ぎて、パン屋で働かせてもらうようになってからのことです。 パン屋の仕事は私に意識変革をもたらしました。 私はパン屋がスタートしたばかりの時に入ったので、誰もが素人の状態で出発して、序列がありませんでした。チームワークで仕事をするので、誰かの仕事のサポートという意識も強く芽生えました。年齢も男女も関係なく、一人一人がなくてはならない存在であり、お互いに助け合っています。 ここでは誰かを支える意識と、各個人の個性を平等に見て尊ぶという意識が芽生え育ちました。 私は常に自戒しています。 もし 人をすこしでも立場や序列で見始めると、たちまち人の心も自分に心も見えなくなる からです。 だからパン屋でつかんだ人の見方を大事にして、常に忘れまいとしています。 立場で見ないということは、店長や社長もパートの人も平等に見ることを意味します。それは立場の違いでも身分の違いでもなく、役割の違いであるとみるのです。そしてその人の 個性や心に意識を向け、その人自身を理解していこうとすると、それが楽しい のです。 種村修   ( 種村トランスパーソナル研究所・心理カウンセラー ) お気軽にご意見ご感想をお寄せください。 メールによるカウンセリングも承っております。 メールアドレス: tanemura1956@gmail.com

感情の重要性と隠ぺい⑥…行動と慎重さ

「私の丹田は、私が本にはまり込み、心が成長できない方向に使う時間の長さに恐怖を感じていた」 私は前のブログ(感情の重要性と隠ぺい⑤)でこう書きました。 丹田の意思を感じ取る一つの方法に、腹式呼吸をして息を吐きだすところまで吐き出したうえで肚の意思を見つめるという方法があります。 ある時それに取り組んでいた時に、すさまじい恐怖を感じて、椅子から飛び上がったことがあります。この時に感じた恐怖は、私が三次元的な価値観や知識で固めていく生き方に対して、丹田が感じていた感情でした。私の丹田が私の生き方に恐怖心を持っていたと気づいた時は、さすがにショックでした。 陳述書を巡って感じた私の丹田の恐怖心も、その延長線上にあるものでした。 これを総合すると、私には 丹田を見つめることを避けてしまう傾向がある 。そして、 丹田の思いを、見えたことと考えたことによって曲げたり隠したりする傾向性を持っている。大きすぎる丹田の意思から目を背けようとする。 そういう姿が見えてきました。 これは過去世の何らかの傷によるものと思われます。私は過去世でどんな経験をしたのでしょうか。おそらくは、 私が丹田の意思を感じ取って行動したことで、すごく怖い体験をした過去がある と思います。 丹田の意思に気づいて行動することを怖がっている自分がいる 。それは事実だと思います。 でもこういう丹田を無視する傾向性をそのまま推し進めると、私の個性が死んでいきます。 過去世で、丹田の意思をはっきり感じ取り個性を活かす行動にでた。その勢いがよすぎて痛い目に遭った。その時すごく怖い経験をした。そういうことだろうと思います。 でもこれを克服しないと、自分の個性を今世、本当に輝かすことができないで終わってしまいます。 私はもともと好奇心が非常に強く、安全志向の逆で、ここぞと思うと思い切った行動をする性質があります。 京都大学 2 回生の時に、昭和天皇のご在位五十年の祝賀の主張を学内の圧倒的多数の左翼の暴力にさらされてもやりぬいたのは、その性質の発露であったと思います。また新しい動きに対し、世の中の評価が全く定まらない時期に、自分が正しいと確信するとまっすぐ飛び込むというのも、私の行動にはあります。 またその逆に、すでに大きな存在

感情の重要性と隠ぺい⑤…丹田の意思に気づく

私たちは、思っていること、分かっていること、つまり意識できていることが自分のすべてであると思いがちです。しかし現実には、分かっていることと分からないことの両方をひっくるめて自分です。 これは顕在意識と潜在意識の両方をひっくるめて自分だという意味です。 私はあの裁判で知人から陳述書を頼まれたとき、もし怒りをもったまま裁判と関わってしまっていたら、関われば関わるほど昔の自分に引き戻されていたと思います。 昔の自分というのは、怒りをもって自分の裁判を戦った時です。この時も顕在意識では冷静に、愛の気持ちでという自戒を己に課していましたが、抑圧していた怒りに気づいてはいませんでした。 私の丹田(本当の自分)は、昔の自分に引き戻されることを嫌がっていました。怒りで昔に引き戻されていくのを嫌がっていたのです。 だから、今回の裁判は、関わり方を昔と同じにしてはいけないというブレーキがかかりました。 丹田の意思は、自分が直接受け取れることもあれば、それができない時、誰かの口を通して意思を伝えてくれることもあります。その時、直観的にこれがそうであると気づけるかどうかが勝敗の分かれ目です。ゆえに心を開いてあらゆる可能性を検討する柔らかい姿勢と謙虚さが常に必要になると思います。 話を戻します。 ブレーキがかかったのに気づいた私は、自分は今試されているのだと気を引き締めました。何を書くかも重要ですが、それだけでなく、それを書くときの自分の心境こそが問われていると感じたからです。 さて、こうした経験は、私の丹田を大きくしてくれたと思います。丹田は経験して大きくなっていきます。 私には小さい時から本に淫するという癖がありました。本にかじりついて、体験を軽んじる傾向があったのです。 もちろん本を読んでもそれをもとに体験をしていけば問題はないのですが、体験することに臆病になったり、おっくうに思って、本ばかりを次々読んで、行動しなくなって満足する傾向があったのです。読めば読むほど知らないことを自覚することが増え、もっと読まなくてはと心が急(せ)き立てられるようでした。そして引きこもっていきました。 しかし知識はいくら重ねても、丹田(つまりは魂)を大きくしてくれません。丹田は、単なる知識は忘れていくよ

感情の重要性と隠ぺい④…隠す別の理由

感情を隠す理由として、「感情の重要性と隠ぺい①」で自我の防衛機制という話をしました。 その具体的な実例として、正義を旗印にすることで怒りの感情を隠した私の体験を②で紹介しました。この時には怒りの奥に恐怖心があり、怖いから無意識に感情を隠してしまったという経験を書きました。 実はこのほかにも注意を払うべき要因があります。 その一つは 憑依 、別の言葉でいうと「 のりうつり 」です。 憑依してきたエネルギーは自らの存在を知られないようにしようとする傾向があります。そこで、自分が知られるきっかけとなる感情を隠そうとするのです。 ですから、感情が見えない時、憑依を疑う必要があります。憑依には死者のエネルギーもありますが、生きている人のエネルギーが来ていることも少なくありません。これは生霊と呼ばれることがありますが、よくあることです。 たとえば誰かが気になって仕方がない時、その人のエネルギーが憑依していることがあります。それはその人が憑依しようとしてするのではなく、その人に頼りたがっていたり、その人をずっと気にしていたら、自分のエネルギーが相手のところにいくのです。これはほとんど無意識の作用です。 一方、憑依された人は、来ている人のエネルギーを感じるので、なんとなくその人のことが気になったりします。または気にしていなくても、発想や思考や行動パターンがその人に似てきます。 こういうケースでは、自分がいつもの自分と違うはずなので、そこで立ち止まって普段と違う自分を自覚して、憑依の存在を検討する必要があります。誰が来ているかを見抜けば、たいていは離れます。その人のエネルギーに対してお引き取りくださいと、心の中でいえばいいのです。 ただし、強く恨まれたりしている場合だと、簡単には外れません。その原因を作った自分の行動を反省し、お詫びをして自分の思考と行動を変える必要があります。自分が変われば波長が合わなくなり、外れていきます。 感情を隠す理由の二つ目は、 過去世の個性 です。 たとえば自分の過去世の個性が自分を隠したがっている場合、その個性が顕在意識にまで出てきていると自分を隠そうとするので感情が見えにくくなります。 なにかその過去世の個性が心に深い傷を抱えている場合に、そういうことが起きる場

感情の重要性と隠ぺい③…サインとしての怒り

前回、 怒りをエネルギーにして働くと、やっている最中は燃えていて生き生きしているように錯覚するが、あとで疲れが出て燃え尽きる という話をしました。 怒りの最中は燃えているので、そこに内包している自己否定については何も気づけません。一歩引いてサインと見たときに、怒りは気づきに変わります。 怒りはサイン です。 怒りは「 裁いている心 」のあることを告げています。 怒りの奥には、 自分を裁きたがっている心 があるのです。 要するに、「 自分の中に自分を裁いている部分があるからそれに気づけ 」というサインなのです。 ちなみに、怒りで燃え尽きるということは自己処罰の結果とも言えます。また怒りで相手に食ってかかると、お互いに燃え尽きます。大変な消耗ですが、これも自分を裁いた姿でもあるでしょう。 話を私の体験に戻します。 知り合いの裁判に、私に関するうわさ話がジャーナリスト A 氏の陳述書で出されており、それへの反論に対する A 氏の再反論の陳述書も読みました。そこには「社会的な立場の高い人が言っていた。だからこの話は真実であり信ぴょう性が極めて高いと判断した」という趣旨の言い訳が書かれていました。 その噂話は事実無根で、しかも私に一切裏付けの取材をせず、思い込みだけで書いていることに本当に腹が立ったのです。 A 氏は自分が取材した人物が高い社会的な立場にあるというだけで、それを鵜呑みにして、裏どりもせず書いたのです。こういうことができる神経が信じられませんでした。 しかし、本当の問題はそこにはありません。 それに対して激しい怒りを私が持ったのはなぜかという点こそが、問題の核心でした。 怒りが「自分を裁いている心があることを知らせるサイン」なら、自分の何に対してその裁きが向けられていたのでしょうか。 これを調べる時に役立つのが、心理学で使う「 投影 」という概念です。 「投影」とは「自分」が無意識裡に<自分>に対して抱いている感情を、よく似たものを持っている<他者>に投げかけて、その人に対する感情として感じることです。 もっとわかりやすく言うと、誰かを激しく怒った時、非難している相手と同じものを自分が持っているということです。自分のなかにある「過ち」や「嫌な部分」

感情の重要性と隠ぺい②…怒りと正義

私自身にも感情を隠す癖があることを、自覚させられることがありました。 その時に発見したのは、 <「これが正義だ」と思った段階で、すでに元の感情を自分から隠している。 すり替えることで隠している。> ということです。 「これが正義だ」と思うことで隠した感情とは、 怒り です。 怒りの感情が、正義という思いにすり替わることで、自分がもっている強い怒りの感情に気付けなくなります。 きっかけは、昔の知り合いから、彼が関わっている裁判に陳述書を書いてほしいという依頼を受けたことに始まります。 詳細は省かせていただきますが、私が全くあずかり知らぬところで私の名前が勝手につかわれていたことを知り、それに私が怒りを持ったのです。 その裁判では、私が大昔にある資料の隠ぺいに関わった疑いがあるというような事実無根の噂話を、わたしへの裏付け取材も確認のための電話一本もないまま、唐突に裁判所に陳述書として出されていたのです。 「ジャーナリストを名乗る人間が、裏付けをとらないままずさんな内容を書き散らしているとは許せない。義の為には黙っているわけにはいかない。」 と思いました。 その時に大きく激しい怒りの炎が自分の心の中に燃え上がっていたことには、気が付きませんでした。 実は私は以前、自分の名前を許可なく勝手に使われて、心を傷つけられ、すごくいやな思いを経験したことがあるのです。その際に激しい憤りを感じました。 かつてのその記憶と感情が、この時につながってしまい、そのためによけいに激しい怒りとなったのです。 過去と現在がつながった結果、当時の私は過去の怒りを持った自分の心の状態に戻っていました。つまり、昔の心の状態が、そこに出てきたのです。そして阿修羅のエネルギーとなっているので、敵を求めて荒れていたのです。 このエネルギーの状態のままで、その時頼まれた陳述書を書くと、いたずらに敵を増やし、あらたに争いをまねいてしまう可能性がありました。 怒りのエネルギーが燃えているだけであっても、そういう時には何か自分が生き生きしているような錯覚も覚えるものです。私にはしばしば怒りのエネルギーを原動力にして動いたという経験があったので、その状態に戻ったのです。 怒りのエネルギーを