私たちは、思っていること、分かっていること、つまり意識できていることが自分のすべてであると思いがちです。しかし現実には、分かっていることと分からないことの両方をひっくるめて自分です。
これは顕在意識と潜在意識の両方をひっくるめて自分だという意味です。
私はあの裁判で知人から陳述書を頼まれたとき、もし怒りをもったまま裁判と関わってしまっていたら、関われば関わるほど昔の自分に引き戻されていたと思います。
昔の自分というのは、怒りをもって自分の裁判を戦った時です。この時も顕在意識では冷静に、愛の気持ちでという自戒を己に課していましたが、抑圧していた怒りに気づいてはいませんでした。
私の丹田(本当の自分)は、昔の自分に引き戻されることを嫌がっていました。怒りで昔に引き戻されていくのを嫌がっていたのです。
だから、今回の裁判は、関わり方を昔と同じにしてはいけないというブレーキがかかりました。
丹田の意思は、自分が直接受け取れることもあれば、それができない時、誰かの口を通して意思を伝えてくれることもあります。その時、直観的にこれがそうであると気づけるかどうかが勝敗の分かれ目です。ゆえに心を開いてあらゆる可能性を検討する柔らかい姿勢と謙虚さが常に必要になると思います。
話を戻します。
ブレーキがかかったのに気づいた私は、自分は今試されているのだと気を引き締めました。何を書くかも重要ですが、それだけでなく、それを書くときの自分の心境こそが問われていると感じたからです。
さて、こうした経験は、私の丹田を大きくしてくれたと思います。丹田は経験して大きくなっていきます。
私には小さい時から本に淫するという癖がありました。本にかじりついて、体験を軽んじる傾向があったのです。
もちろん本を読んでもそれをもとに体験をしていけば問題はないのですが、体験することに臆病になったり、おっくうに思って、本ばかりを次々読んで、行動しなくなって満足する傾向があったのです。読めば読むほど知らないことを自覚することが増え、もっと読まなくてはと心が急(せ)き立てられるようでした。そして引きこもっていきました。
しかし知識はいくら重ねても、丹田(つまりは魂)を大きくしてくれません。丹田は、単なる知識は忘れていくようです。転生を越えて何時までも忘れないのは、体験したことだけのようです。
丹田が大きくなるというのは、言い換えると自分の心が成長する、魂が成長するということです。本だけをいくら読んでも、脳が発達して物知りにはなって、心は成長できません。
私の丹田は、私が本にはまり込み心が成長できない方向に使う時間の長さに恐怖を感じていたと思います。それが自分への苛立ち、怒りとなっていたと思います。
この裁判の時は、私が自分の怒りを正義にする変えることで抑圧していくのか、それとも自分の怒りの感情と向き合って、自分を見つめていくのか、それを問いかけてきていました。
感情を見つめると、その奥に本当の自分が見えてくることがあります。分からない自分が見えてくることが少なくありません。
その「分からない自分」のなかには、本当の自分、丹田の意思が含まれています。裁判で感じた怒りの奥に、自分自身への怒りがあり、その奥には魂が成長できない方向に時間を使うことへの恐怖が潜んでいました。それを感じ取り、生き方を変える必要があったのです。
種村修 (種村トランスパーソナル研究所・心理カウンセラー)
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