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深刻な経験の意味

思考が回らなくなる時
私がリストラで仕事を失った「中年の危機」の時期、私はバカになったと思いました。というのは思考が回らなくなり、記憶力が低下し、今までできたことができないのです。私は無気力と無力の深い穴に落ち込んでいきました。その穴から這い上がるには長い長い年月を要しました。
その頃の私のエネルギーの状態はというと、あくびを出して眠そうですぐに固まってしまうのです。動作はすごく緩慢です。パワーなく、思考も回らず、記憶がつながりません。 ただし、今現在の感情は分かっています。喪失感、挫折感、悲しみが深く、みじめです。希望がなく、自分の今までを否定し、未来も見えません。 ひどいうつ状態で、本当に思考が回らないバカになった自分を経験しました。
その時の思考能力は、AからBが生まれ、BからCが生まれるという流れは分かるのですが、AとCがつながらないという感覚です。プライドが高いので、この状態はよけいつらいもので、自分と向き合うことが困難でした。
過去世とのつながり
今世において特徴的な経験は、実は過去世の魂の傷の再現であり、それを乗り越えるために体験することが少なくない。私はそう感じます。
過去世において、たとえば脳に何らかの損傷を受けて、思考が回らなくなり、自分がみじめになって固まってしまった経験としたら、どうでしょうか。 もしその時に、自分がバカになったのは、脳に損傷を受けた結果であり、自分の価値がなくなったわけではないと冷静に自分を受け入れられていたら、固まる必要はなかったと思います。 しかし、それをもって自分が駄目になったと思い、自己否定に陥ったから、固まってしまい、魂に深い傷となって残ったのでしょう。
その時の魂の傷は、今世まで持ち越され、ある事件をきっかけにその心の状態が再現されます。それが、私の40歳代に経験した、うつ経験の意味ではないかと思うのです。
うつ状態に陥った自分を見つめると、あれだけ真剣に学び、思考を鍛えたはずなのに、今ここには何もなせない惨めな自分があるだけだ、という惨めな現実です。
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初日の出を拝む

今年、平成最後の元旦に、初日の出を拝ませていただきました。 高台にある近所の神社に参拝し、そこから東を臨み、太陽の昇りくる光を待ちました。 高台には十数名の若い方、ご年配の方がいらっしゃいました。
太陽が地平線の下から昇ってくる瞬間に、崇高な尊い光が現れてきました。 そして太陽が顔をのぞかせたのですが、その輝きを目にして、宗教的な崇高な思いがこみあげてきました。 これは自然にこみあげてくる感情であり、「尊いな」と感じました。 そして「ありがたいな」と思いました。 今年も太陽が照らしてくださり、私たちの地球が生命溢れる星として活き活きとした活動を続けられるのです。
日本では太陽神を天照大神として崇拝します。 したがって、日本人である私たちのこうした思いは、天照大神に通じていくのだと思います。
私の少し後ろには、初日の出に手を合わせる年配のご婦人がいらっしゃいました。 拝むという行為は、ごく自然です。 私も手を合わせ、首を垂れ、感謝を捧げました。
一年の初め、一日の初めに宗教的な崇高な気持ちをもってスタートさせていただけることは、本当にありがたいことだと思います。
今年もブログを続けて参ります。 私が肌で感じ取り、実感して考えたことを書いていきたいと思います。 私の個性の発露であるようなブログになることを志していきたいと思います。 本年もよろしくお願いします。
種村修(心理カウンセラー・種村トランスパーソナル研究所所長) ご案内:メールでのカウンセリングを行っています。

個性は生き生きしていますか

私たちが自分の状態を日々振り返るとき、一つのチェックポイントは個性が生き生きとしているかどうかだとおもいます。
個性がいきいき発揮されていない場合というのは、一例をあげると環境や人間関係の縛りを受けて縮こまっている場合があります。こういう場合は、個性が誰かのエネルギーに縛られ、憑依されて、がんじがらめになっています。 自分が縛られていることを自覚することが、なによりも必要です。 自覚したら変えることができます。
子どもが親のしばりでがんじがらめになっている時にも、つよい抑圧が生まれます。自分の感情欲求が出せなくなり、自分がそういう感情欲求を持つことすら気づけなくなります。自分が無意識に抑圧して、意識にのぼらぬようにしてしまっているからです。 こういう場合は、信頼できる誰かがその子の感情や欲求をひき出して、表現させてあげる必要があります。そうしないと、この子は自分が分からなくなり、誰かに依存していくようになることがあります。
さて、個性が生き生きしている時とは、どういうときでしょうか。いくつかの特徴をあげてみたいと思います。
自分が生き生きとしている  ワクワクして喜んでしている時や、感謝に満ちて熱心にうちこんでいるとき、個性が輝いている。
自分の問題を外部要因で説明しない  誰かのせいでとか、何かのせいでこうなったと説明せず、自分の問題に焦点を当てる姿勢をもつ。
否定発信しない  どんなことであれ否定的な見方や発言をせず肯定でものを見て肯定的に発信していく。
成長している  小さいことでいいのですが、自分が昨日までよりも少しでも成長し、好ましい方向へ変化している時は、個性が発揮できている時です。
 自分らしさを大切にし、自分らしさ、つまり個性を生き生きとさせて日々生きることは、毎日の目標であり人生の喜びを増やしていくことだと思います。
心理カウンセラー・種村修 連絡先:tanemura1956@gmail.com

隠す理由

人が自分を隠す理由にはいろいろあります。 仕事上での小さなミスを、なんとなく上司や周りにいたくない、隠したい気持ちが私にはありました。
なぜ隠したいのだろうかと、その理由を探っていくと、思わぬ原因に行き当たりました。 それというのは、「自分のなかにある理想の自己像」に原因があったのです。 これが不自然にかっこよすぎて、そこに自分を押し込もうとするあまり自分を窮屈にしていたのです。 結果、自然な自分を否定し、ありのままの自分を隠したいという気持ちになっていました。
私が描いていたかっこよすぎる理想の自己像とはどんなものだったかといいますと、笑わないでくださいね。
①失敗しない ②周りから認められている ③努力は人一倍していないといけない ④スピーディーにスッとできないといけない
こういう理想の自己像をもっていて、その枠の中に自分をはめ込もうとしていたのです。 そのために大変窮屈になってしまい、自然体でなくなっていました。 だから失敗を隠すようになったのです。 「この失敗はなかったことにして、忘れてしまおう」と・・・。 実際、そうやって失敗を完全に忘却していたこともありました。
この問題点を、身近な事例で考えたいと思います。
パンを運んでいて、うっかり落としてしまいました。 このとき隠す気持ちが働くと、落とされたパンの気持ちを考えません。 隠すと、落としたパンへの関心が消えます。 隠さずにきちんとパンに気持ちを向けると、こう思ったはずです。

成長にならないことは起きない

前回の記事(http://tanemura2013.blogspot.com/2018/09/blog-post_8.html)「卑屈さとプライド」で、私は次の精神態度の問題点を指摘しました。
「精神的なもの、自分が価値を認めるものを上位に置き、そうでないと思うものを否定する。線引きをして、下位のものを否定する。関心を向けなくなる。」
私自身、若い時にはこうした傾向がずいぶん濃厚にありました。 どこからこうした線引きをしたのでしょうか。 今思うと、親の価値観に影響を受けていた面がずいぶんあると思います。
教育者であった父親の読書傾向にも相当な影響を受けました。 二宮尊徳やペスタロッチを尊敬したのも、父の影響です。 また神社仏閣を尊びお参りする習慣も、宗教を尊ぶ気持ちも、親の影響です。私の魂の素地もあったと思いますが、親の影響は強く受けています。 そうした反面、経済活動や商売といったものには、関心がありませんでした。また中学の時に病気をした影響も加わり、肉体を鍛えることを下に見て、精神に価値を置く肉体軽視の傾向が強くありました。
私は近年、いくつかの商業活動にかかわったり、肉体を鍛えることにウエイトを置いた生活をしてきましたが、これは昔の偏りの修正をするうえで、価値のある経験でした。 そして私が軽視して来たものに、実は、おおきな価値があったことに気付かされました。 その結果、この世には「価値がないものなどない」という見方に変わってきました。
そしていろいろな経験を通して、こうも思えるようになりました。
「成長にならないことは起きない。すべて成長につながる。」
これは受け止め方をそうすることで、本当にそうなります。 起きてくることは、すべて成長する機会です。 そうとらえて取り組めば、必ず成長できます。 逆の捉え方をして失速することも、実は成長につながる経験になっていきます。 こういうとらえ方には、否定がありません。 すべて肯定です。

肚から声を出す方法

丹田を動かしてお腹から声を出す、肚から声を出す方法について、声楽をやった人に聞くと色々教えてもらえて、非常に納得できることがあります。

私は丹田を動かし、腹から声をだす感覚をつかむのに大変苦労してきました。
ましてそれを第三者に説明することは非常に難しいと感じています。
身体の使い方を体得しないといけないからです。

ところが本格的に声楽をやったことがある人が教えてくださった解説は、とてもわかりやすく、かつ実践しやすいものでした。 対話形式でご紹介したいと思います。


<横隔膜を下げ丹田に力を入れる>
Q 丹田で声を出すということを、どんなふうに習得されましたか?

A よく、「お腹から声を出すといい」なんて聞くけれど、 現実にお腹に息(酸素)を入れ込むことなんてできないんですよ。
呼吸の際に吸う「酸素」というものは、肺に入るもので、肺以外に「酸素」は入る事はない訳ですから。
肋骨の下部に沿って、横隔膜という膜が張ってあって、
横隔膜より上部の部分(肺とかある部分)は圧力が低くなっているんです。
だから、簡単に息が肺に入るようになっているのですが、
その横隔膜を破くと、横隔膜より下の部分(胃腸などの臓器がある部分)と、
上部の圧が同じになってしまうので、呼吸ができなくなります。
私が大学で経験したマウスを使った動物実験では、横隔膜を破くと、 次第にマウスは呼吸が出来なくなって、
息を引き取ってしまいました・・・(合掌)

Q 横隔膜を境に上と下で気圧が異なるというのは。はじめて聴きました。
肺に空気が入るのは、横隔膜の上の部分の気圧がその他の部分よりも低いからなんですね。
A そうですね。
話は呼吸にもどりますが、
じゃあ、息(空気というか酸素ですね)は肺にしかはいらないものなのに、
どうやって、「お腹から声を出す」状態にするんだろう。
疑問でした。
その疑問は、あるとき、 「お腹から声を出すというのは、お腹の前を膨らませるのではなく、
お腹の横を膨らませるイメージを持つお腹から声が出やすい
と聞いて、それにすごく納得したのです。
胸で息をするというのは、呼吸の際に胸が動くものですが、
お腹で息をするというのは、いわゆる、横隔膜を動かして、
横隔膜を下にググッと下げて、肺にいっぱいに息を貯めて、
かつ、その際に、お腹の側面を膨らますようにすると、
丹田部分に力が入るんですよ。
叩いても痛くない感じです。

Q 下腹に力が入った状態ですね。

卑屈さとプライド

卑屈さとプライドは、つながることがあります。
大変プライドが高い学校を中退したあと、なかなか世の中で認められず惨めな思いをすることがあります。 おうおうにして現実のみじめさから卑屈になるのですが、内心のプライドは非常に高いのです。 プライドが高いからこそ一層惨めな気持ちがするのですが、そうすると往々にして現実を否定します。そしてプライドにしがみつきます。
本当ならプライドを見つめなおして修正すればいいのです。 そういうまたとない機会です。 しかし、ありのままの自分を受け入れられなくて、現実とプライドのギャップに傷つくので、プライドをもっと高くして現実を否定しようとします。 これは逃避です。
つまり人間は卑屈さの奥に、高いプライドをもっているのです。
卑屈の人と接する時は、その人が持っている高いプライドを軽く見てはなりません。 奥にある、その人の個性の価値を見出すような付き合い方をし、礼節をもって接するのがいいと思います。 それは恨みを買わない方法であり、かつその人が自分の個性の価値を見つめるきっかけになると思います。
また自分が卑屈になっていると思う時は、プライドに引っかかっている自分を見つめなくてはなりません。 プライドが自分の個性を妨げているからです。
私たちの個性は尊いものです。 個性は人によって千差万別です。でも尊さは等しいと思います。 自分を尊ぶということは、個性を見出し個性を発揮する努力をするということです。 そして個性に自信を持つことです。 それでこそ、のびのびとした心で生きることができます。 それはプライドにこだわることとは、全く違うのです。

若い人の場合、個性を見出すには、まず両親から受けたさまざまな抑圧を見つめ、それを跳ね返す必要があります。

またある種の若い人は、精神的なものや自分が価値を認めるものを上位に置き、そうでないものを否定する傾向があります。
こういう傾向があると、人とのコミュニケーションがうまくいきませんし、自分の個性も見出せません。
価値の線引きをして下のものを切り捨てるという考えを持つと、下とみなしたものに関心を向けなくなります。
こうした「否定」を抱えていると、人の個性も見えないし、さまざまな事柄にある価値も見えないし、自分の価値も見えません。
物事の見方が非常に狭く、付き合いにくく、プライドばかり高い浜の狭い人間になるので、勇気をもって自分を変えようとすることが必要です。