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1月, 2021の投稿を表示しています

激しい承認欲求について思うこと

私たちには、認められたいという欲求が強くある。 特に若い間は、その欲求はとても強い。 年を重ねると、露骨には出ないかもしれないが、やはりそれはある。 欲求は願望を伴ったエネルギーだ。 そのエネルギーは、学業や仕事やスタイルやファッションの追求の原動力になる。 また目立つ行動を突き動かす源にもなる。 それはしばしば激しい衝動となる。 得ても得ても満足をしらぬ渇愛ともなる。 承認欲求は、自分の価値を認められたいという欲求だ。 同時に自分の価値を証明したいという欲求でもあると思う。 自分の価値が周りから認められると同時に、自分で自分の価値を確認し納得したいのだ。 なぜ自分が納得したいのか? それは、「自分の価値を否定し、疑問を持っている自分」がいるからだと思う。 自分の内面に深く食い込んでいる自己否定を、実績や称賛によって打ち消したいのだ。 自己否定の原因は、劣等感や挫折の経験かもしれないし、罪悪感かもしれない。 何か自分の価値を否定する気持ちが強く働いているのだ。 それはしばしば自己否定の言葉として口から飛び出してくる。 だからその人を見ていると分かることがある。 褒められたいんだなとか、認められたいのだろうと感じるが、 本当は自分が自分を肯定したいのだと思う。 それだけ強い自己否定をその人は抱えて生きているのだ。 それが苦しいのだ。 自分への自己否定の苦しみは、外からの賞賛や認知である程度やわらぐが、しばらくするとまた傷口が疼(うず)きだす。 自分の存在そのものが価値ある個性であることを、自分自身が受け入れない限り、それはおさまることはない。 問題の根本は「自分という存在の価値」を、自分自身が認め、受け容れるかどうかだ。 宇宙が生み出した唯一の、かけがえのない価値ある「個性」、それが自分という「存在」なのだと、自分が自分を受け入れるかどうかだ。 もし、周りがその人を支援できるとしたら、その人の行動や実績だけではなく、その人の存在を認めてあげることだと思う。 その人を、価値ある個性として受け容れることであり、その個性に敬意を払うことだと思う。 自分の存在の価値を受け入れることができたなら、人は晩年もおだやかで満ち足りた気持ちで生きることができるだろう。 同時にその人は、周りの人の個性を尊び、存在を価値あるものとみなすので、まわりの人々を穏やかにしていくだろう。

オリジナルを追究してみたい

 自分のブログについて振り返ってみて、 自分のオリジナルの思想がないかもしれないと、 反省の思いが湧きました。 権威ある思想や、信頼できる人からのサジェスト、 それがあると安心して書けるが、 自分の想いだけで書くのをためらう気持ちを感じてきました。 オリジナリティを打ち出すことが怖いのかな、と思いました。 しかし、その奥に何かある気がします。 ふと、自分の直感に従うことを怖がっているのでは、 と気が付きました。 直感は、自分の心から湧き出るものであり、 誰か権威ある人が言ったからとか、 どこかの専門者に書いてあるものではありません。 直感に従うことへの恐怖心は、 自分の心から湧き出るものをそのまま書いたり、 それに従って行動することへのブレーキになっているようです。 なぜそんなに恐怖を感じるのでしょうか。 自分の直感を信じて行動したことで、自分が窮地に陥った経験があるのかな? 過去世でそういうことがあり、それが魂の傷になっていて、 今なお恐怖心が出るのかもしれないな。 自分の直感に従うことが怖いから、 誰かの権威をよりどころにしたくなったり、 多くの知識を集めて慎重に行動したくなるのかもしれないな、・・・。 何とも言えない胸のあたりでざわめく恐怖心の感覚は、 そうに違いないと教えているようです。 だったらどうするか。 自分の直感に従って、自分の独自の言葉でブログを書こう。 その時に出てくる恐怖心があれば、それと向き合い、対決しよう。 そう決めて、このブログを新しい内容で、再開することにしました。

自分の個性を感じるということ

 神社にお参りすると、くっついているものがはがれる。 すると、自分が自分らしくなれる。 そういう経験を何度もするうちに、 自分の個性について考えたことがあります。 一ケ月ほど前、御嶽神社へお参りしました。 自分の個性を教えてください、とお祈りしたのです。 ふと神社の上を見上げると、青空があります。 「すがすがしいな~。なんてすがすがしいんだろう。」 すがすがしいというのはこんな気持ちなのか、 と圧倒されるようなすがすがしさのボリュームを感じました。 先日のことです。 久々の休みに、一駅分歩いて誉田八幡神社へお参りしました。 神社へのお参りが終わって帰る道すがら、すがすがしいという気持ちが胸にあふれてきました。 普通の街並みを見て歩きながら、「すがすがしいな」と感じていることに気づきました。 二度の経験で、自分の個性は、このすがすがしい気持ちかもしれないと思いました。 もう1年以上前になると思うのですが、 自宅からずっと数キロ歩き通して参拝したある稲荷神社でのことです。 私の個性を教えてくださいとお祈りしたところ、 間もなくあるイメージが浮かんできました。 稲穂が黄金色にたわわに実っています。 そこへ一陣の風が吹いてきて、稲穂についている虫などを吹き飛ばしてくれます。 この時も、青空が広がっており、すごくすがすがしい感じがしました。 このイメージが、祈りへの回答だとすると、 すがすがしさは、風のようにくっついているものを吹き払う働きを併せ持つことを 暗示していると思いました。 このイメージのことは忘れていたのですが、 先日の誉田八幡神社でのお参りのあと、思い出しました。 私の誕生日は5月初旬です。 その少し前の、4月下旬のころの気候は、「清明」と形容されます。 少し暖かくなりかけて、さわやかで、澄み切った空気の感覚が、清明です。 私にとってのすがすがしさの原型は、清明という感覚です。 本当にこの季節が大好きで、心が清明な空に吸い込まれるような気がします。 私の個性がもし、清明を原型とするすがすがしさだとすると、 私の個性が発揮できれば、周りもさわやかに明るくなるし、 自分もわだかまりのない、すがすがしい心で毎日が過ごせると思えます。 自分が自ら足を運んでつかんだこの感覚は、 是非大切にしていきたいと思いました。