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立場で人を見ない

人を序列や立場で見ると、人の心が見えなくなります。 だから、 人を立場で見始めたら要注意 です。 私はというと、高校生の時、テストの順位が壁に張り出される環境に置かれ、人をテストの成績順でみる見方を身につけてしまいました。 大学に入ると、人を大学や学部で序列化してみるようになりました。 社会に出ると、地位・ポストや業績の優劣で見るようになりました。 このように常に人を序列や立場で見て、自分が相手とくらべて上か下かを意識するような意識でした。ですから人の心は見えなかった・・・。 これが中年を過ぎると勝組か負け組かというような見方も加わってきました。 もっとも自分は後者だ思い、落ち込んで自己卑下をしていたわけですが。 こうした見方をようやく離れて、 個性を平等に見て尊べる ようになったのは、還暦を過ぎて、パン屋で働かせてもらうようになってからのことです。 パン屋の仕事は私に意識変革をもたらしました。 私はパン屋がスタートしたばかりの時に入ったので、誰もが素人の状態で出発して、序列がありませんでした。チームワークで仕事をするので、誰かの仕事のサポートという意識も強く芽生えました。年齢も男女も関係なく、一人一人がなくてはならない存在であり、お互いに助け合っています。 ここでは誰かを支える意識と、各個人の個性を平等に見て尊ぶという意識が芽生え育ちました。 私は常に自戒しています。 もし 人をすこしでも立場や序列で見始めると、たちまち人の心も自分に心も見えなくなる からです。 だからパン屋でつかんだ人の見方を大事にして、常に忘れまいとしています。 立場で見ないということは、店長や社長もパートの人も平等に見ることを意味します。それは立場の違いでも身分の違いでもなく、役割の違いであるとみるのです。そしてその人の 個性や心に意識を向け、その人自身を理解していこうとすると、それが楽しい のです。 種村修   ( 種村トランスパーソナル研究所・心理カウンセラー ) お気軽にご意見ご感想をお寄せください。 メールによるカウンセリングも承っております。 メールアドレス: tanemura1956@gmail.com

感情の重要性と隠ぺい⑥…行動と慎重さ

「私の丹田は、私が本にはまり込み、心が成長できない方向に使う時間の長さに恐怖を感じていた」 私は前のブログ(感情の重要性と隠ぺい⑤)でこう書きました。 丹田の意思を感じ取る一つの方法に、腹式呼吸をして息を吐きだすところまで吐き出したうえで肚の意思を見つめるという方法があります。 ある時それに取り組んでいた時に、すさまじい恐怖を感じて、椅子から飛び上がったことがあります。この時に感じた恐怖は、私が三次元的な価値観や知識で固めていく生き方に対して、丹田が感じていた感情でした。私の丹田が私の生き方に恐怖心を持っていたと気づいた時は、さすがにショックでした。 陳述書を巡って感じた私の丹田の恐怖心も、その延長線上にあるものでした。 これを総合すると、私には 丹田を見つめることを避けてしまう傾向がある 。そして、 丹田の思いを、見えたことと考えたことによって曲げたり隠したりする傾向性を持っている。大きすぎる丹田の意思から目を背けようとする。 そういう姿が見えてきました。 これは過去世の何らかの傷によるものと思われます。私は過去世でどんな経験をしたのでしょうか。おそらくは、 私が丹田の意思を感じ取って行動したことで、すごく怖い体験をした過去がある と思います。 丹田の意思に気づいて行動することを怖がっている自分がいる 。それは事実だと思います。 でもこういう丹田を無視する傾向性をそのまま推し進めると、私の個性が死んでいきます。 過去世で、丹田の意思をはっきり感じ取り個性を活かす行動にでた。その勢いがよすぎて痛い目に遭った。その時すごく怖い経験をした。そういうことだろうと思います。 でもこれを克服しないと、自分の個性を今世、本当に輝かすことができないで終わってしまいます。 私はもともと好奇心が非常に強く、安全志向の逆で、ここぞと思うと思い切った行動をする性質があります。 京都大学 2 回生の時に、昭和天皇のご在位五十年の祝賀の主張を学内の圧倒的多数の左翼の暴力にさらされてもやりぬいたのは、その性質の発露であったと思います。また新しい動きに対し、世の中の評価が全く定まらない時期に、自分が正しいと確信するとまっすぐ飛び込むというのも、私の行動にはあります。 またその逆に、すでに大きな存在