理想像とコンプレックス
理想像というのは、往々にしてコンプレックスそのものを表わすことがあるようです。
私が気づいたケースをとりあげてみます。
私は真理を求め道を求めるものは、個人の生活上の欲求について、時に経済的なことについて求めてはならないという規範――こういうとよく聞こえますが、要するに狭い縛りがありました。これは中学時代からありましたので、結構根が深いものです。
この理想像は、経済的な才覚に乏しいことへのコンプレックスと表裏一体であったと、今は思います。そしてそれが依存体質につながることも、はっきりわかります。
私の故郷の滋賀県には、中江藤樹という戦国時代の末期から徳川時代の初期にかけて生き、日本の陽明学の祖で近江聖人といわれた儒教家がいました。
この方は儒教に実践するべき道を追い求めて、士官の道(今でいう会社勤め)をリタイヤして、地元で母親を支えながら道を求め、人々を教えて日本的な儒教の道を確立しました。
この方の住居跡を見学したことがありますが、そこで初めてここで酒を売りながら生計を立て、そのうえで道を求めていたことを知りびっくりしました。中江藤樹は表向きの商売として、アルコールの小売業をされていたのです。それで生計を立てたうえで、道を求め、また請われるままに人々を教えたりしていたのです。
そこには自立精神がしっかりとあります。仏教者のように信者の御布施で生きたり、誰かに経済的に頼ったりする依存心がありません。
もっとも私には経済生活への苦手意識があるだけではなく、道だけを求める生活や高邁な理想を求める生き方がかっこいいことだというようなプライドが潜んでいたと思います。それがあるので、学生時代からアルバイトの経験すらなく、経済活動を毛嫌いする気持ちがあったのです。プライドにひっかかって自縄自縛に陥っていたのです。
だから地に足の着いた生活をなかなか追い求めようとする気持ちがわかなかったのだと反省しています。
そう反省し、地に足をつける努力を始めると、こちらの方がはるかに自由ですし、かつ道を求める努力も真剣みが増してきたように感じます。
プライドやコンプレックス、それが表裏一体となったような理想像や規範意識は、自分の成長を止めたりゆがめたりしていたと思います。
恐怖心とコンプレックス
さらに、道を求めるものは生きた人の心を救えなくてはならず、生きている人を導かないいまの葬式仏教はおかしいと、中学生のころ生意気にも考えていました。まして自分が地獄へ落ちるような修行者は言語道断という規範意識がありました。
小学生の頃、お寺で地獄絵図を見てすごく恐怖心が湧いたことを覚えています。
これは過去世のどこかで地獄を経験している、その痕跡であると思います。
そう考えると、「救われるべき生きた人間」とは、今生きている自分自身にほかならないと思います。
それを正面から見ようとしなかったので、中3にして「生きている人間を救おうとしない葬式仏教だ」という紋切り型の決めつけをして、お寺にも求めることができずにいたに違いありません。
本当は自分が救われたいのだが、地獄に落ちた自分と向き合うのが怖いから避けていた。それが心の真実ではなかったかと、今は思います。
この場合、コンプレックスとは道を求めたのに地獄へ落ちたことです。それがコンプレックスとなっていて、絶対に認めたくないことだったと思います。そして「絶対に失敗してはならない」という決意を持ったと思います。それが「求道者はかくあるべし」的な高い理想像になり規範意識になったと思います。
でもそれは地獄へ落ちた過去へのコンプレックス之裏返しに過ぎません。
あらゆる経験は心の成長につながっていくという、私たちのすべての経験の奥にある意味を知ったなら、その経験を否定するのがおかしいし、恐怖するのもおかしいのです。
それを認めて受け入れても、私が私であることに変わりませんし、私の個性の価値は少しも傷つくものではないと、今は思います。
そう思えば、自分を否定せず、それが事実なすべてはありのまま受け入れようと思います。そこにしか成長につながる道がないからです。
そう考えると自分のコンプレックスを赤裸々に触れることも、一度やり始めると、意外にできる気がするのです。
種村修 (心理カウンセラー・種村トランスパーソナル研究所所長)
ご案内:メールでのカウンセリングを行っています。
コメント