スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

隣の人の思考が移る

 ふと思いつくことは、本当に自分が単独で思ったのかことなのでしょうか。 隣の人の思いが移ってきた思いじゃないのだろうか。 そんな可能性を考えないといけないと思う出来事がありました。 私は働いているパン屋の商品棚の前に立っていました。 「このパンを数個セットで売ってほしいというのが本社からの要請だが、一人暮らしの老人のことを考えているのだろうか? やはり一個売りは無くしてはいけない。」 そんなことを考えていると、隣に立っていた年配の女性が話しかけてきました。 「これは冷凍庫に入れれば数日持ちますか?」 「ええ、冷凍庫に入れれば日持ちがしますよ」 そう私が答えると、 「じゃあ4個入りをいただくわね。一人暮らしなものでね。いっぺんに何個も食べないからね」 と言いながら、パンを買い物かごに入れました。 そこでハッとしました。 先ほど私の心に湧いていた思いは、元はこの女性の脳裏に湧いた思いだったのじゃないか。 それを自分が映しとって、考えていたのかもしれない。 隣の人の思考が私に移ってきた可能性は高い。 この女性が話しかけてくださったので気づけたが、無意識に誰かの思考を映しとって考えていることはよくあるのかもしれない。 逆に、私が思っていることを、一緒にいる誰かが映しとってしまうこともあるに違いない。 どんな気持ちで仕事するかは、しゃべらなくても、職場のみんなの思考に影響しているはずだ。 私の思いが職場の人や家族に移っていくとしたら、私が考えていることには責任が発生します。 また私が考えていることは、誰かの思いではないかということも、常々点検が必要です。 一緒にいる人とはエネルギーがつながって相互に作用しあっている。 それがありのままの私たちの姿なんだと、しみじみと気づかされました。

焦りにあおられる

 小さな失敗が、いくつか起きた。 それを点検すると、焦りの心があるときに起きている。 昔も、焦りでつまづいているが、それがまた出てきたのか? 小さな失敗の一つは、実家に荷物を送った後、すぐに実家の家族にラインを送ったこと。 家内は一緒に文面を考えて送りたいと言っていたのに、勝手に、先走って、怒られた。 私は荷物を預けた後、「すぐ連絡しなくちゃ」と焦って、歩道に立ってラインしていた。 その時ちらっと家内の言葉はよぎったのに、せかされ煽られるようにラインした。 考えると、焦りの中にあるときの思考は、それ自体が微妙に狂っている。 その思考のどこが悪いかと考える前に、そもそも焦っている自分は何かを見るべきだ。 一刻も速く、家族に伝えたかったのか? でも、どうして?  荷物は明日つくから、今晩ラインしても十分間に合う。 家内が買ってくれたものも送るから、一緒に思いを伝えた方が良い。 なのに一人で先走ってしまうのはなぜ? なぜ待てないの? 子供がすぐに誰かに知らせたくなるように、はしゃいだの? 確かに、私にはそういう傾向はある。 だが、焦った段階で、焦りに煽られていたと思う。 ほら急げ、もっと急げ、急がないと間に合わないぞ! なにかそういうささやきのエネルギーが来ていたと思う。 そしてそれに操られて行動していた気がする。 株を買う時も経験した。 家内は、いま急に上がったから、また下落するから待てと言った。 私は、もっと上がるんじゃないかと焦って買った。 次の日から下がりだした。 数日後に株価が持ち直したからよかったが、ここでも家内ともめた。 焦りにあおられて招いているのは、家庭の不調和かもしれない。 焦りに煽られると、自分が自分でなくなる。 家庭の調和が崩れる。 その結果、エネルギーをロスしてしまう。 焦ったときは、「それは本当に私の思いなの?」と踏みとどまるべきだと思った。 焦りを取り除いた後に、もう一度同じ結論が出たら、そのときは実行すればよい。 煽られて何かするのはやめよう。 自分が自分でなくなっているから。

変化する意志

 人は生きている限り、変化し続ける。 変化しなくなったときは、死ぬ時だ。 死ねば人は固まる。 固まっている時間が長くなることは、それだけ死に近づいているということだと思う。 年を重ねるごとに、変化するには意志と努力が必要になる。 年を取ればとるほど、新しいことに取り組むことで、変化を促す必要があると思う。 振り返ってみると、英語を学び始めたのが4年前。 パン作りをはじめ、パン屋さんにアルバイトし始めたのが3年前から。 走り始めたのは1年前。今はペースを落とした分、筋トレを加えている。 宇宙物理学の本を読み始めたのが1年前から。 投資を勉強し始めたのは、まだ最近のことだ。 次第に関心の領域が広がり、視野の拡大は楽しい。 何より未来設計が豊かになってきた。 いろいろな選択肢が生まれ、こうなりたいという願望が芽生えている。 とても幸せだ。 特に体力の維持・増強は年を重ねると必須事項になってくる。 健康が維持されているからこそ、いろいろチャレンジできていると思う。 意志あるところに道は開ける。 これは菅義偉総理大臣の座右の銘だが、私もそれを信じる。 腹筋百回が菅総理の日課と聞いて、私もそれに近づく努力をしているところ。 今日は56回まで来た。(一日1回増加) なぜ変化したいのか。 自分がもっと成長したいからだ。 変化は、成長するための必要条件だと思う。 そして個性がより輝く方向への変化が、十分条件だと思う。

走るということ

 走ることは、カラダの欲求でもあるが、精神の欲求でもあると感じるようになった。 それは、走るのをやめ、歩くだけにして3か月ほどしてから感じ始めたことだった。 3か月前、1年以上続けてきたランニングをやめたのは、膝に痛みを感じたからだ。 膝が痛むと歩き、しばらくしてまた走る。 そんなうちに、寒さが増し、走るのが億劫で仕方なくなり、歩くだけにしようと思った。 走るのをやめるとほっとした。 ところが2か月もしないうちに、体に少しずつもやもやが溜まってきたように感じだした。 いままで走ることで祓っていた何かが、カラダに滞り溜まっていく感覚なのだ。 これはやばいかもと思いだし、再び走ることにした。 もっとも毎日は続かないので、休みの日だけ走ることにした。 それでも、走るとすっきりする。 汗をかき爽快になるとともに、体も心も軽くなるのがわかる。 途中、神社に参拝したりするので、なおさら軽くなるに違いない。 走っている途中はあの角まで走ろう、あの坂道の上まで走ろうと、心の中で、小さな目標を決めてそこまで走る。 走り切ると、次の目標を描いて、また走る。 その繰り返しは、小さな達成感の連続で、軽く走れる気がして楽しい。 走り終えた達成感と、汗をかいて着替えるときの気持ちのよさは、自分へのご褒美だろう。 走り終えると自分がリセットされて、元に戻る感覚がある。 意欲が出て、前向きになっている。 自分を変えようと努力している自分が、嬉しくもある。 走ると体重が下がることは経験則で知っている。 自分らしくあり続け、いい仕事がいつまでもできるように、走り続けたいと思っている。

体を鍛えることと心を鍛えること

 私は令和3年の2月現在で64歳です。 今年の5月には65歳を迎えます。 加齢とともに、身体の及ぼす心への影響について、実感することが多くなってきました。 一番顕著なのが、朝起きて体が重いときです。 なかなか動く気になれなくて、椅子に座ったまま本を読んだりして時間が過ぎていきます。 読書が進むので悪くはないのですが、カラダは固まっています。 自分の意志が強く働かず、カラダにずるずるひきずられている感が否めません。 そんな時でも、重い気持ちを説得して筋トレに取り組むと、短時間で気分が一新します。 今朝は、腹筋43回、背筋43回、腕立て伏せ43回、3キロのダンベルでの腕のトレーニング左右各43回、スクワット80回、それと真向法にストレッチです。 気分が一新して、自分の主体的な意志で行動を始められます。 なによりもカラダに引きずられる感が消えています。 筋トレは、筋肉を鍛えますが、心の筋肉も同時に鍛えるようです。 意志力が全然違ってくるのを実感しますし、前向きになります。 十年ほど前ですが、なかなか自己変革が進まず、進んだと思っては元に戻ったりを繰り返していました。 それが大きく変わったきっかけは、体質改善に取り組んだことでした。 食事、睡眠、運動を見直し、少しづつ不可逆的に変えていったところ、気持ちも大きく変化しました。 この時はっきりと、心が成長し自分が変わっていっている実感を持ちました。 体を鍛える整えることと、心を鍛え整えることは、一体のことであると思います。

激しい承認欲求について思うこと

私たちには、認められたいという欲求が強くある。 特に若い間は、その欲求はとても強い。 年を重ねると、露骨には出ないかもしれないが、やはりそれはある。 欲求は願望を伴ったエネルギーだ。 そのエネルギーは、学業や仕事やスタイルやファッションの追求の原動力になる。 また目立つ行動を突き動かす源にもなる。 それはしばしば激しい衝動となる。 得ても得ても満足をしらぬ渇愛ともなる。 承認欲求は、自分の価値を認められたいという欲求だ。 同時に自分の価値を証明したいという欲求でもあると思う。 自分の価値が周りから認められると同時に、自分で自分の価値を確認し納得したいのだ。 なぜ自分が納得したいのか? それは、「自分の価値を否定し、疑問を持っている自分」がいるからだと思う。 自分の内面に深く食い込んでいる自己否定を、実績や称賛によって打ち消したいのだ。 自己否定の原因は、劣等感や挫折の経験かもしれないし、罪悪感かもしれない。 何か自分の価値を否定する気持ちが強く働いているのだ。 それはしばしば自己否定の言葉として口から飛び出してくる。 だからその人を見ていると分かることがある。 褒められたいんだなとか、認められたいのだろうと感じるが、 本当は自分が自分を肯定したいのだと思う。 それだけ強い自己否定をその人は抱えて生きているのだ。 それが苦しいのだ。 自分への自己否定の苦しみは、外からの賞賛や認知である程度やわらぐが、しばらくするとまた傷口が疼(うず)きだす。 自分の存在そのものが価値ある個性であることを、自分自身が受け入れない限り、それはおさまることはない。 問題の根本は「自分という存在の価値」を、自分自身が認め、受け容れるかどうかだ。 宇宙が生み出した唯一の、かけがえのない価値ある「個性」、それが自分という「存在」なのだと、自分が自分を受け入れるかどうかだ。 もし、周りがその人を支援できるとしたら、その人の行動や実績だけではなく、その人の存在を認めてあげることだと思う。 その人を、価値ある個性として受け容れることであり、その個性に敬意を払うことだと思う。 自分の存在の価値を受け入れることができたなら、人は晩年もおだやかで満ち足りた気持ちで生きることができるだろう。 同時にその人は、周りの人の個性を尊び、存在を価値あるものとみなすので、まわりの人々を穏やかにしていくだろう。

オリジナルを追究してみたい

 自分のブログについて振り返ってみて、 自分のオリジナルの思想がないかもしれないと、 反省の思いが湧きました。 権威ある思想や、信頼できる人からのサジェスト、 それがあると安心して書けるが、 自分の想いだけで書くのをためらう気持ちを感じてきました。 オリジナリティを打ち出すことが怖いのかな、と思いました。 しかし、その奥に何かある気がします。 ふと、自分の直感に従うことを怖がっているのでは、 と気が付きました。 直感は、自分の心から湧き出るものであり、 誰か権威ある人が言ったからとか、 どこかの専門者に書いてあるものではありません。 直感に従うことへの恐怖心は、 自分の心から湧き出るものをそのまま書いたり、 それに従って行動することへのブレーキになっているようです。 なぜそんなに恐怖を感じるのでしょうか。 自分の直感を信じて行動したことで、自分が窮地に陥った経験があるのかな? 過去世でそういうことがあり、それが魂の傷になっていて、 今なお恐怖心が出るのかもしれないな。 自分の直感に従うことが怖いから、 誰かの権威をよりどころにしたくなったり、 多くの知識を集めて慎重に行動したくなるのかもしれないな、・・・。 何とも言えない胸のあたりでざわめく恐怖心の感覚は、 そうに違いないと教えているようです。 だったらどうするか。 自分の直感に従って、自分の独自の言葉でブログを書こう。 その時に出てくる恐怖心があれば、それと向き合い、対決しよう。 そう決めて、このブログを新しい内容で、再開することにしました。