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激しい承認欲求について思うこと

私たちには、認められたいという欲求が強くある。 特に若い間は、その欲求はとても強い。 年を重ねると、露骨には出ないかもしれないが、やはりそれはある。 欲求は願望を伴ったエネルギーだ。 そのエネルギーは、学業や仕事やスタイルやファッションの追求の原動力になる。 また目立つ行動を突き動かす源にもなる。 それはしばしば激しい衝動となる。 得ても得ても満足をしらぬ渇愛ともなる。 承認欲求は、自分の価値を認められたいという欲求だ。 同時に自分の価値を証明したいという欲求でもあると思う。 自分の価値が周りから認められると同時に、自分で自分の価値を確認し納得したいのだ。 なぜ自分が納得したいのか? それは、「自分の価値を否定し、疑問を持っている自分」がいるからだと思う。 自分の内面に深く食い込んでいる自己否定を、実績や称賛によって打ち消したいのだ。 自己否定の原因は、劣等感や挫折の経験かもしれないし、罪悪感かもしれない。 何か自分の価値を否定する気持ちが強く働いているのだ。 それはしばしば自己否定の言葉として口から飛び出してくる。 だからその人を見ていると分かることがある。 褒められたいんだなとか、認められたいのだろうと感じるが、 本当は自分が自分を肯定したいのだと思う。 それだけ強い自己否定をその人は抱えて生きているのだ。 それが苦しいのだ。 自分への自己否定の苦しみは、外からの賞賛や認知である程度やわらぐが、しばらくするとまた傷口が疼(うず)きだす。 自分の存在そのものが価値ある個性であることを、自分自身が受け入れない限り、それはおさまることはない。 問題の根本は「自分という存在の価値」を、自分自身が認め、受け容れるかどうかだ。 宇宙が生み出した唯一の、かけがえのない価値ある「個性」、それが自分という「存在」なのだと、自分が自分を受け入れるかどうかだ。 もし、周りがその人を支援できるとしたら、その人の行動や実績だけではなく、その人の存在を認めてあげることだと思う。 その人を、価値ある個性として受け容れることであり、その個性に敬意を払うことだと思う。 自分の存在の価値を受け入れることができたなら、人は晩年もおだやかで満ち足りた気持ちで生きることができるだろう。 同時にその人は、周りの人の個性を尊び、存在を価値あるものとみなすので、まわりの人々を穏やかにしていくだろう。

オリジナルを追究してみたい

 自分のブログについて振り返ってみて、 自分のオリジナルの思想がないかもしれないと、 反省の思いが湧きました。 権威ある思想や、信頼できる人からのサジェスト、 それがあると安心して書けるが、 自分の想いだけで書くのをためらう気持ちを感じてきました。 オリジナリティを打ち出すことが怖いのかな、と思いました。 しかし、その奥に何かある気がします。 ふと、自分の直感に従うことを怖がっているのでは、 と気が付きました。 直感は、自分の心から湧き出るものであり、 誰か権威ある人が言ったからとか、 どこかの専門者に書いてあるものではありません。 直感に従うことへの恐怖心は、 自分の心から湧き出るものをそのまま書いたり、 それに従って行動することへのブレーキになっているようです。 なぜそんなに恐怖を感じるのでしょうか。 自分の直感を信じて行動したことで、自分が窮地に陥った経験があるのかな? 過去世でそういうことがあり、それが魂の傷になっていて、 今なお恐怖心が出るのかもしれないな。 自分の直感に従うことが怖いから、 誰かの権威をよりどころにしたくなったり、 多くの知識を集めて慎重に行動したくなるのかもしれないな、・・・。 何とも言えない胸のあたりでざわめく恐怖心の感覚は、 そうに違いないと教えているようです。 だったらどうするか。 自分の直感に従って、自分の独自の言葉でブログを書こう。 その時に出てくる恐怖心があれば、それと向き合い、対決しよう。 そう決めて、このブログを新しい内容で、再開することにしました。

自分の個性を感じるということ

 神社にお参りすると、くっついているものがはがれる。 すると、自分が自分らしくなれる。 そういう経験を何度もするうちに、 自分の個性について考えたことがあります。 一ケ月ほど前、御嶽神社へお参りしました。 自分の個性を教えてください、とお祈りしたのです。 ふと神社の上を見上げると、青空があります。 「すがすがしいな~。なんてすがすがしいんだろう。」 すがすがしいというのはこんな気持ちなのか、 と圧倒されるようなすがすがしさのボリュームを感じました。 先日のことです。 久々の休みに、一駅分歩いて誉田八幡神社へお参りしました。 神社へのお参りが終わって帰る道すがら、すがすがしいという気持ちが胸にあふれてきました。 普通の街並みを見て歩きながら、「すがすがしいな」と感じていることに気づきました。 二度の経験で、自分の個性は、このすがすがしい気持ちかもしれないと思いました。 もう1年以上前になると思うのですが、 自宅からずっと数キロ歩き通して参拝したある稲荷神社でのことです。 私の個性を教えてくださいとお祈りしたところ、 間もなくあるイメージが浮かんできました。 稲穂が黄金色にたわわに実っています。 そこへ一陣の風が吹いてきて、稲穂についている虫などを吹き飛ばしてくれます。 この時も、青空が広がっており、すごくすがすがしい感じがしました。 このイメージが、祈りへの回答だとすると、 すがすがしさは、風のようにくっついているものを吹き払う働きを併せ持つことを 暗示していると思いました。 このイメージのことは忘れていたのですが、 先日の誉田八幡神社でのお参りのあと、思い出しました。 私の誕生日は5月初旬です。 その少し前の、4月下旬のころの気候は、「清明」と形容されます。 少し暖かくなりかけて、さわやかで、澄み切った空気の感覚が、清明です。 私にとってのすがすがしさの原型は、清明という感覚です。 本当にこの季節が大好きで、心が清明な空に吸い込まれるような気がします。 私の個性がもし、清明を原型とするすがすがしさだとすると、 私の個性が発揮できれば、周りもさわやかに明るくなるし、 自分もわだかまりのない、すがすがしい心で毎日が過ごせると思えます。 自分が自ら足を運んでつかんだこの感覚は、 是非大切にしていきたいと思いました。

桜の句を詠みました

    今年の春も桜が美しく咲きました。 今年は武漢肺炎の猛威の中で、残念ながら近隣を散歩しながらの花見にとどまりましたが、それでも心が満たされます。 武漢コロナ 寂しき春と なりにけり 人の出がまばらで、花見を楽しむ家族ずれはわずかでした。 そんな中で朝ランニングしていると、走っている人の姿が増えているのに気づきます。 外出自粛要請を受けて、だれもが運動不足になるなか、走ることで解消したい人が少しずつ増えているのだと感じます。 桜花 散りて空気を 春に染め 桜花 風に溶けゆき 春の色 今は 4 月中旬。 桜がどんどん散り始めていますが、散っていく桜の薄いピンクが樹木から消えるぶん、周りの空気が薄いピンク色にそまっていくような感覚を実感しています。 周りの空気が薄い桜色になり、桜が春の空気になっていく。 そんな静かな感動が湧いてきます。 思えばまだ肌寒いころに早咲きの桜が咲きはじめ、満開になる頃にはずっと温かくなり、花散る頃は春爛漫です。 一つの時代が大きく変わり、新しい時代が開けるのも、同じかもしれないと思います。 まず梅の花が咲き、寒さが終わるのもちかいことを知らせます。 やがて桜が咲くと春の到来を告げます。 桜が散る頃にはあちこちが桜の花吹雪で、空気全体が桜花の色に染まっていきます。まるで桜が溶けだして春の空気に変わっていくようです。 私も人生の終盤を過ごしていますが、私の仕事が春の到来を告げる一輪の桜でありたいと願っています。 もしこれも地球の春の到来を告げる活動の一つであれば、やがては桜花があちらにもこちらにも咲きほころようになり、散る頃にはほかの花々が一斉に咲きだして地球の新時代を飾っていくに違いありません。 そんなささやかな願いを持ちつつ、今日も小さな成長を重ねていきたいと思います。

成長を願う思いは実現する

私は不思議だなと感じる体験があります。 自分の心の成長を心の底から願っていた時、それにぴったりの環境が与えられるという経験をしたのです。 40代のころのことです。中年の危機の真っただ中でした。 私は二つの心の成長につながる願いを持っていました。 一つは、責任感のある人間になること。 私には子供がいなかったこともあり、ここ一番のところで責任感が希薄になる瞬間があると感じることがあり、それを変えたいと思いました。 二つ目は財務の目を持つこと。財務や資金繰りはしたことがなく、すごく劣等感がありました。経営の視点を持つために、その方面で磨きたいと思っていました。 しかし、簿記3級をやっと取ったばかりの人間に、そんな機会があるとは考えられませんでした。 ところが心の成長に関わる願いはかなうものだと、しみじみと感じる出来事が起きました。 不良債権を多く抱え、取引銀行が退いていく中で、いつ倒産してもおかしくないような状況下でかろうじて持ちこたえていた企業から、財務の責任者の誘いがあったのです。 なぜ素人の私に財部部門を任されたかというと、銀行から来ていた財部部長が、見切りをつけてやめてしまったからです。他になり手がなく、個人的な信頼関係だけで社長が私をそのポストに据えたのです。 私も仕事を求めて苦闘してた時であり、飛び込みました。 資金繰りがメインの仕事であったので、銀行交渉のため、休みが取れない緊迫した仕事でした。病欠も許されなかったので、私は病気にならないと決めました。すると風邪をひかなくなりました。 朝は早朝に出てよりは遅くまで仕事をしました。陽の昇る前にタクシーで会社に来て、タクシー代は自腹という日もありました。会社の実情を知っているので、経費を請求するにもなれませんでした。 資金繰りが厳しく、もうだめかと毎月思いました。 荒海に出って漁をする漁師が、船の床板の一枚下は地獄と感じていたといいますが、その感覚がひしひしと分かった気がしました。 それでも責任を投げだせません。多くの人が生活の基盤を失うからです。 この経験で、私は自分が欠如しているた責任感を、いやおうなく鍛えられました。 覚悟を鍛えられたと思います。 結果的には、優秀な専門家や部下の方の力を借りながらも、3年間で奇跡的な財務再建の経験をしました...

のりうつりのエネルギーをはがす方法

生霊とか死霊とか、さまざまなエネルギーがのりうつり、つまり憑依する現象があります。 よくよく観察していると、自分であって自分ではない状態というものがあります。 自分はこういうことを普段しないのに、急にしたくなったとか。病院へお見舞いに行ったら、突然病気や死が怖くてしかたがなくなったとか。普段愚痴を言わないはずの人が、誰かと会ったあとでとめどのなく愚痴を言いだしたとか。 これらは誰かのエネルギーの営業を受けて、自分であって自分でない状態が起きているのです。 自分が普段と違う状態になっている時、誰かのエネルギーをかぶっていないかどうかを、まず見ていく必要があります。 憑いているエネルギーというのは、見破られると憑いていられなくなります。ですから、憑いているものはばれたくないので、自分を隠そうとします。 それを見抜くためには、客観的に冷静に自分を見つめることが必要です。 相手のエネルギーがくっついていると、その方の特徴的な言動や思考の癖が、無意識に自分に出ます。それが自分本来のものでないのなら、くっついている可能性が高いです。 こういう時は、「くっついたな」と見破り、「お引き取りください」と心で思えば、普通は離れていきます。 つまりこれは自分とは違うエネルギーだと認識すると、そのエネルギーと自分との間に境目ができて、分離できるのです。 それを認識しないで何でもひとくくりにして自分だと思っていると、憑依しているエネルギーの影響は取れません。 もちろん、自分に出てくる不都合な思いや言葉や行動が、すべて他の影響であるとだけ見るのは、責任転嫁になり甘えにもつながるので、注意は必要です。そういう警戒は必要なのですが、自分以外のエネルギーをまず分離しておかないと、自分の思いが何なのかが見えてきません。自分を変えることもできません。 くっついてきたものを分離した後は、自分自身を点検します。 どういう原因でこの思いや言動が出てきたのかを振り返ります。 原因が見いだせれば、その時の感情をしっかり覚えておきます。同じ感情が出たら、自分のなかでアラームが鳴るようにしておくためです。そうすることで再発を防げます。 くっついた原因が、依存する気持ちである場合もあります。 自分が誰かに依存していると...

同じパターン

私たちはよく同じパターンで失敗や停滞を経験しがちです。 もし同じパターンに陥ったと思ったら、 ここからどうすれば成長となるかを考えましょう。 「また同じパターンにはまった。自分はダメなやつだ。」 と自己卑下をするのはやめましょう。 こういう時に感じる不安は、 自分の力のなさを認識することへの恐れから来ます。 「こんなに修行(自己改善の努力努力のこと)したのに力がない」 そう思うと無気力になります。 すると停滞に入ります。 同じパターンに入ったという気づきは、 智慧の働きです。 「ここからどう成長するか」 この問いかけによって梯子を伸ばし、 穴から出ましょう。 種村修   ( 種村トランスパーソナル研究所・心理カウンセラー ) お気軽にご意見ご感想をお寄せください。 メールによるカウンセリングも承っております。 メールアドレス: tanemura1956@gmail.com