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心を見つめるポイント



心を見つめるということは、カウンセラーや宗教家や思想家の専売特許ではありません。
その対極にある山登りやヨットでの長い航海や、何日もかけて走る極限の長距離走など、さまざまなスポーツの世界に挑戦する人も、実は自分と向き合い心を見つめています。

いかなる世界に生きるにしろ、心を見つめ、自分に打ち勝ち、新たな自分を発見することを、私たち人間は成長の喜びとして感じています。
外にばかり目が向いている時期が続いても、何かのきっかけで内に目を向けざるを得ない時期というのが必ず来ます。外なる成長は、内なる成長を伴わなければ持続できません。
心を見つめるというのは、万人にとって成長のための基本的ないとなみであると思います。

心を見つめてきた中で、私自身が感じたポイントがいくつかあります。
そのいくつかを書き留めておきたいと思います。

①確固たる意志を感じ取ること。
これは心を見つめる目的に近いものでもあると思います。何人にも個性が持つ確固たる意志というものあります。それを感じ取った時に、私たちの人生は動き出します。自分を変えたい。自分の根源に辿り着きたい。そういう意志も確固たる意志の一つだと思います。

②恐怖に向き合う肚を決めること
自分の感じる強い恐怖は、乗り越えるべき何かがそこにあることを教えています。恐怖に向き合うのに必要なのは、知識でも思想でもなく、肚を決める勇気です。度胸です。
肚を決め勇気を出して恐怖に向き合った経験があると、そこから道が開けることを実感します。さらに人の感じる怖さが分かるので優しく寛容になります。

③過去を起点とせず、今を起点とする
自分を見つめるというと、とかく過去に目がいきやすく、過去のことを悔やんだり後悔しがちです。
しかし、目を向けるべきは過去ではなく、今です。今、ここで感じている思いや感情こそが、見つめるべき心です。今の感情に向き合った時におのずと関連して思い出されてきた過去であれば、その時は過去を見つめているというより今を見つめる延長となります。

④自己否定を発見すること
私たちが苦しんできたおおもとは、自己否定にあります。何かをきっかけに自己否定すると、そこで成長が止まります。そして苦しむのです。
どんな自己否定があるのかを見出し、それを肯定に転換できると成長が始まります。

⑤苦しみはサイン
苦しみと見える現象は、サインでもあります。自分が本来の姿から外れていたり、成長のわき道に入っていることを知らせるサインです。そういう観点で苦しみをとらえると、進むべき道が見えてきます。

心を見つめるうえではもっと他にも大切なポイントがあり、それをつかんでいる方も数多くいらっしゃると思います。ここでは私がある時点でつかんだ5つのポイントに限って書いてみました。参考になれば幸いです。

心理カウンセラー・種村修(種村トランスパーソナル研究所)
<連絡先>
電話 090-8051-8198

メールによる相談を中心にカウンセリングを行っています。

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自己特別視と依存の心理

自分を特別視して肥大した自我を持つ人には、しばしば依存心が見られます。
プライドが高く自分は特別にすごい人間だと、内心思っているのに、世間で通用するような実績や成果が出ないで屈折する人がいます。 素質を持ちながらも、この人の心理の奥に依存心が潜んでいて、それがその人の努力と成長を妨げているのです。
よくあるケースとして、生育過程でその人が親や祖父母から特別扱いをされ、それゆえに自己特別視と依存の心理が育ってしまう場合です。
ある男性の家系では、3~4代前のご先祖の当主が自殺したそうです。それまで栄えていた家は、そこから暗転し、それ以降は、家系には男子が恵まれず、産まれても育たずに早死にし、女性によって細々と血筋が守られてきました。 その男性は、この家系にようやく生まれ育った待望の男児でありました。 ですから、祖父母やご両親の愛情と期待を一身に受けながら、特別な存在として大切に育てらたのです。 この男性にとっては、自分は特別な存在であるということは周囲から植えつけられた、空気のように当たり前の固定観念でした。そして非常に大事にされて育ったので、自分は特別な存在だから愛される、愛されて当然の存在だという気持ちも無意識に育っていたのです。それは依存心につながるものでした。
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長男として生まれた男児を、祖父母が特別愛情を注ぎ、何でも先回りして世話を焼き、母親も同じように手をかけて息子を育てた場合に、それが生じます。
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