スキップしてメイン コンテンツに移動

心の奥を探る



自分の心を知らなければ、人の心は分かりません。

今から5年前になりますが、私は心の中にあった根源的な寂しさに出会って、人の抱える寂しさについてそれまでよりも深く理解できるようになりました。
また、個人の秘密であり心の闇でもあることを語る時の恐怖心と向き合った時に、人が恐怖心と向き合う時の戦慄を理解できるようになりました。

自分の気持ちは書物には書いてありません。
この星の中で、自分の心を見つめ、自分の持つさまざまな感情に触れて初めて、自分がわかり人が理解できます。
知識を通してでなく、実際に心を見つめる経験を通して初めてわかることです。

自分が「今」の感情を見つめ、掘り下げていって初めて、そのさらに奥にあるものが出てきます。
その繰り返しの中で、自分の根源へとさかのぼれます。
自分の根源でもある本当の自分を知るということは、自分の秘めた可能性を知ることであり、自分の個性がいかなるエネルギーであるかを知ることです。
実際に経験してつかんだとき、そのエネルギーを発揮することができます。

そうした自分の根源を知る方法の一つに瞑想があります。
深い瞑想で心が感じ取ったことは、確かな経験となり、刻まれます。自分が肉体に制限された存在ではなく、もっと広がりをもった存在であることを思い出させてくれます。

私の探究の途中で体験したある日の瞑想体験を書いてみたいと思います。

温かさが背中から、腕、そして全身へと広がりました。
温かさに包まれて、とても心地よく感じています。
ハスの花を思い浮かべます。
巨大なハスの花のつぼみです。
ポンと銀河宇宙へと飛び出してみています。
心地よい暖かさに包まれています。
宇宙を包み込む大きな優しさを感じて、孤独の思いが取れてゆきます。

ハスのつぼみが花開きます。
ポンと開く。
何の不安もありません。どんな不幸もありません。
つぼみのままでいる必要がありません。
美しく花開きます。

さらに宇宙空間へと行きました。
一人でも恐怖心はありません。
心地よさに包まれています。
言葉にはならない「愛しているよ」という愛の思いを感じて癒されています。

心理カウンセラー 種村修 (種村トランスパーソナル研究所)
連絡先:℡ 09080518198
📨 tanemura1956@gmail.com

コメント

このブログの人気の投稿

自己特別視と依存の心理

自分を特別視して肥大した自我を持つ人には、しばしば依存心が見られます。
プライドが高く自分は特別にすごい人間だと、内心思っているのに、世間で通用するような実績や成果が出ないで屈折する人がいます。 素質を持ちながらも、この人の心理の奥に依存心が潜んでいて、それがその人の努力と成長を妨げているのです。
よくあるケースとして、生育過程でその人が親や祖父母から特別扱いをされ、それゆえに自己特別視と依存の心理が育ってしまう場合です。
ある男性の家系では、3~4代前のご先祖の当主が自殺したそうです。それまで栄えていた家は、そこから暗転し、それ以降は、家系には男子が恵まれず、産まれても育たずに早死にし、女性によって細々と血筋が守られてきました。 その男性は、この家系にようやく生まれ育った待望の男児でありました。 ですから、祖父母やご両親の愛情と期待を一身に受けながら、特別な存在として大切に育てらたのです。 この男性にとっては、自分は特別な存在であるということは周囲から植えつけられた、空気のように当たり前の固定観念でした。そして非常に大事にされて育ったので、自分は特別な存在だから愛される、愛されて当然の存在だという気持ちも無意識に育っていたのです。それは依存心につながるものでした。
こうした特殊事情がなくても、普通に長男としてその家に生まれ、祖父母が特別長男をかわいがる場合、よく似た現象が見られることがあります。
長男として生まれた男児を、祖父母が特別愛情を注ぎ、何でも先回りして世話を焼き、母親も同じように手をかけて息子を育てた場合に、それが生じます。
本人は、自分は特別であるという自己特別視を持っており、自分の価値基準に反する学友を蔑視しがちです。無条件に大切にされてきたので、愛されるのが当たり前だという気持ちがあり、人の感情に対して無神経になります。その結果、積極的に自分から人に関わるコミュニケーション能力が育たず、孤独で孤立しています。
彼には親や祖父母への依存心が根っ子にあるので、無意識に誰かが何とかしてくれるという気持ちがあり、自立してゆくための気力や努力が乏しくなります。「自分は特別だから愛され大切にされて当然だ」という思い込みがあるので、感謝の薄い、傲慢な人間になりやすいのです。また努力が乏しく、人の世話になることに平気です。
こうして「自分は特別の人間だ」という思い込みが、「肥大した自我…

価値観の偏りの修正

私が自分を振り返ったとき、一つの価値観の偏りがあると思いました。 私には「頭で考えすぎる」癖がありました。 それと並行して心を軽視して、さらに行動を軽視していたのです。
頭で考えることと、心がとらえていることに気づくのは大きく違います。 自分の丹田がどうとらえているかを把握することが、本当の意味で心でとらえるということです。それは思考ではなく直感の働きです。
心の働きを強めるには、相手の立場や、さらに上位の方の立場で思いを巡らせるということが必要になります。 後者でいうと日本の場合には、神道の神の立場でどう考えるかという見方があります。
その立場からみれば、この世の成功に目が向きすぎて心の成長に真剣ではないなら、どれほど熱心に仕事をしていても、怠けだと見えると思います。
心の成長に真剣であるとは、一つにはこういうことです。
神様に、あるいは自分の心に問いかける質問として、「成功するにはどうしたらいいか」と問うのでは、心不在です。 「もう一段バージョンアップしたいができないのでどうしたらいいでしょうか」と問い掛けるとしたら、これは心の成長を含めた問いかけになります。
神社で導きをお願いするときには、さらに注意することがあるように感じます。 神道の神様は私たちの覚悟を問われるということです。
ここでは「神様は」、という言い方をしましたが、本当に成長しようとして導きを求めるのなら、どなたであれ覚悟を見られると思います。その覚悟に応じて指導をいただけると思います。その相手が神様なら、より真剣なものが求められると思います。
覚悟は何処で見るのでしょうか。それは行動です。導きを受けた時、それを本気で実行しているか、いい加減にしているかで、覚悟がわかります。行動しない自分に、それ以上の導きは来ないと覚悟するべきだと思います。
この機微を分かりやすく伝えてくれるのが、わらしべ長者の昔話です。わらしべ長者は観音様に祈ったところ、観音様は「最初に手にしたものを大切にせよ」と、声なき声で心に伝えてこられました。それを素直に信じて最初に手にした一本のわらしべでした。これを大切にすることで運命が開けたというのがこのお話です。
さて、私はこう気付いてから、頭で考えて知恵を得ることが尊いという価値観には距離を置き、行動して自分を変えていく努力こそ尊いという価値観に変えようとしてきました。そして、加えて丹田の意思をしっかり感じ…