欲の向き合い方は、年齢を問わず常に重要な課題だと思います。
肉体年齢や社会的な立場の変動により、欲の種類や強弱は変化しますが、決してなくなることはありません。
それは欲自体が生きていくエネルギーを表わしているからだと思います。
しかし、一般的に日本では欲の露骨な追及や発揮は恥ずかしいことだする文化があります。そこで欲があることを素直に認めず、それを隠したいと思う気持ちが強くなります。人から隠すだけでなく、自分からも隠します。
欲を隠すという気持ちの奥には、欲を否定する気持ちがあります。
しかし、欲を否定しても欲はなくなりません。意識化されない欲は無意識(潜在意識)の領域へと押しやられます。潜在意識下で蓄えられた欲のエネルギーは、意識できないので安全かというとその逆で、無意識的に欲に行動が支配されるようになります。突然噴き出してきて、翻弄されることが起きやすいか、あるいはさらに強く否定している場合には病気になったりします。
そこまで極端でないとしても、欲として認めたくなくて、別なものとして正当化することがあります。これは自分の目を欺いている状態です。これはいろんなところで見られます。
そこで、一般的には二つの生き方があると思います。
一つは欲を欲として認めて進むことです。自分にはこういう欲があると素直に認め、そういう自分を受け入れます。
もう一つは欲を欲と認めず、正当化して進むことです。欲をごまかして正当化するので、自分が見えなくなります。
この場合でも、欲があると心の底ではわかっています。分かってはいるけれど、それが欲だと認めていないのです。大義を持ちだして、見えぬように蓋(ふた)をするのです。これが正当化です。
正当化の最大の問題は、自分で自分を誤魔化すので、自分が分からなくなることです。
まぜ欲があることを分かっているのに、認めたくないのでしょうか。
自分の中に、この世的な価値感(通常、欲はこの世的な価値感と結びついていますから)を優先する自分を見たくないし、見せたくないという気持ちがあり、人に対して隠す以前に、自分に対して隠すのです。
これの最大の問題は、自分に隠すので自分が見えなくなることです。自分が分からなくなります。
欲がよくないという価値観は、文化的な刷り込みであると思いますが、その結果己を見失うことが問題です。自分を知る手がかりを自分が消すことになるからです。
「己が欲を持っていることの方が、己を見失うことよりも恐ろしい」と思うからこそ、欲を大義で正当化して隠すのです。己を見失うことがどれほどの苦しみかを体験すると、これがいかに怖いことか身に染みてわかります。
欲を正当化して、己を見失うぐらいなら、欲を欲として認めて進む方がはるかに安全な生き方です。問題は、欲があることではなく、欲を欲として認めずにすすんでしまうことなのです。
欲を欲として認めていると、むしろ欲を制御しやすくなります。欲が意識化されているからです。意識化できているものは、意識でコントロールできます。逸脱しても気が付きます。ブレーキを踏めます。
しかし、意識できていないと、欲が氾濫しても気づきません。欲が氾濫し支配されている状態になっているのに、大義を持ち出して正当化し自分の目から隠したら、どこまでも暴走が止まらないのです。これは恐ろしい結果を招きます。
欲が出たら、「これは欲だ、自分は欲を持っている」と認め、そういう自分を受け入れることが、自分を失わないために必要であると思います。
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心理カウンセラー・種村修(種村トランスパーソナル研究所)
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