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自我と丹田との戦い


私が思考の武器としての言葉を求めて本を読むようになったのは、京都大学在籍中に思想信条の違う学生との議論で負けないためでした。特に左翼の人たちとの議論に勝たなくては、大学内での思想信教の自由が確保できなかったのです。議論に敗れて悔しい思いをしたこともありました。

しかし「本を読むことが活字への依存をもたらしている」「活字に依存して思考することが自分の魂に目をふさぐ原因となっている」という反省が、ある時から芽生え始めました。少し前に書きましたが、明治神宮でのインスピレーションもそれを加速しました。

そこでこの問題をさらに追及していくうちに、根深い自分の問題点が見えてきました。

「本を手放せなかった自分は、いったい何と戦っていたのですか?」

この質問を見つめていると、「丹田と戦っていたのですよ」という答えが降りてきました。

丹田とは、いいかえると「魂」ということです。自分の根源であり、根っ子であり、また自分の全体でもあります。これが「丹田」だと思いますので、「魂」という言葉がぴったりきます。

自分の「魂」を理解しようとする時に、人の言葉で理解しようとしても、それはできません。本ばかり読む私は、人の言葉で、人の意見で戦っているので、これではいつまでたっても自分の本質に近づくことができないわけです。

心理学の勉強に取り組んで以降、本を読む動機は、自分の魂を頭で理解したいということでした。言葉で理解したかったのです。言葉で説明できないと、分かったことにならないと思い、必死で言葉を探していたのです。

しかし、それが丹田と戦っている姿であったのです。言い換えると自分の魂と戦っている姿だったのです。

「理解できないとこが怖いのか。
感じるだけのことが、そんなに怖いのか。
言葉にならないことが怖いのか。」

その問いかけが心に投げかけられました。
私は、「感じるだけ」の自分を拒んでいたのです。

私の奥にあるのは、「言葉で理解でき、言葉にできないことは価値がない」という思い込みです。

「分からないことを表現できて、言葉にしたら価値があると思っている。
分からないことを分かると、勝ったと思う。
つまり戦いの渦中にいる。」

鋭い追及が心に降り注ぎました。
当たり前のように本を読み言葉を探している私は、魂(丹田)との真っ最中だったのです。

「魂をすべて頭脳で説明しようとしている。
すべてを言葉で説明できるというおごりを持っている。」

追及はさらに心に畳みかけられました。
おごりという言葉が、胸にこたえました。

よく考えてみれば、頭脳なんてちっぽけなものです。
でも無意識に、その事実を受け入れたくないと思っていたのです。

その気持ちの奥には、学生時代に感じて信じていることを言葉で説明できなくて馬鹿にされ、みじめな思いをした経験がありました。言葉で説明できないことは、みじめな敗北を意味していたのです。

「魂は、存在そのものだから、証明する必要がない。
証明しようとする努力はいらない。
『感じるだけで十分だ。』
これが戦っていない人の考えだよ。」

そういう言葉も心に降り注ぎました。

魂は、霊的エネルギーの本質は、それをすべて肉体で表現することはできません。
それとおなじことで、魂は言葉ですべてを表わせないのです。
その事実を受け入れなくてはならなかったのです。

説明するための武器として言葉を求めると、魂は生き埋めになっていくのです。

では何を言葉に求めれば良いでしょうか。

「丹田の気持ち、魂の気持ちを表現するために言葉を使えばよい。」

そう響いてきます。

いうなれば、それまでの私は丹田と戦うのが好きだったようです。
宇宙の根源のエネルギーと力比べしているようなものでした。
私の傲慢さはここから生まれていたのです。

宇宙にもつながっている人間の魂で、言葉で説明できる部分など、ごくわずかな領域に過ぎません。魂の全体ははるかに大きな存在です。

にもかかわらず、小さな小さな世界へ、小さな言葉の世界へ、すべてをおしこめようとしていたのです。
それは本来偉大なものを小さく小さくすることです。
自分の魂を小さく小さくして、自分が小さくなっていたのです。
小さくなり同時に傲慢でもあったのです。

「この世的になっている」という意味は、そういうことだったのです。
魂がこの世的なものに生き埋めになっている恐怖心は、それを教えるサインだったのです。

※関連記事「魂の感じる恐怖」


心理カウンセラー 種村修 (種村トランスパーソナル研究所)
※メールや電話でのカウンセリングを行っています。
<連絡先>
電話 090-8051-8198

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