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自己否定の氷を溶かす⑥


自己否定の氷を溶かすには、自己否定の核にある強い思い込みを転換する必要があります。これがないと最終的に氷が溶けません。
自己否定が自己肯定に転ずるには、思い込みを突き崩して考えを変える必要があります。

人を助けたいと思ったのに、それがかなわずむしろ相手を苦しめたと信じて自己否定した人にとっては、自分の動機を肯定する必要があります。

人のためになしたことであれば、自分に誇りを持つべきです。

良かれと思い相手のためにと思ってなしたのであれば、それは素晴らしいことです。そういう自分を肯定し、自分に誇りを持つべきです。

単純に結果により、その人の反応によって傷ついてはならないと思います。
「人のために」という思いでなしたのに、その結果をみて為したことが間違いであったと自己否定してはならないと思います

人のために尽くしてそこまで自己否定するという人は、きっと情の深い人でしょう。情が深い人が、その情を否定して自己否定で固まって氷になったのではないでしょうか。
感情が豊かな人が、その感情を否定したなら、自分自身を否定することになります。

この自己否定は、結果をみての自己否定でした。
これに対しては、時間の尺度をもっと長く持つが必要があるのではないでしょうか。
確かにある時期、とても苦しい状況が出たかもしれません。しかしそれは永遠の魂の歴史の中ではどうだったでしょうか。その経験があることでその魂の成長が促される側面があるのではないでしょうか。
そういう可能性をしっかり考えておく必要があると思います。

このケースでの思い込みの転換のポイントは、次の3点です。
①人を救おうとした自分に誇りを持て。動機を肯定せよ。
②情を否定するな。
③時間を区切るな。相手を傷つけたと思いすぎるな。

一般的には、他人の反応によって傷つく場合には、三つの特徴があると思います。

一つは、相手がよくなることを期待しすぎている時です。
期待するとその期待を裏切られたときに、自己否定に陥りがちです。期待しないということは難しいのですが、やはり最善を尽しても期待通りに行くことも行かないこともあります。その現実を受け入れて、同時に自分自身を受け入れることが必要です。

二つ目は、自分の手で変えようとし過ぎている時です。
人が変わるのは、さまざまな要素があってのことです。特にその人自身の心が一番大事です。自分の手で変えようとし過ぎる思いは、やはり傲慢かもしれないと反省する必要があると思います。

三つめは時間を区切ることです。
これは自己否定している当人にもいえることですが、時間を区切って結果を得ようとするのは焦りにつながります。時間を区切って、相手を傷つけたと思いこむのは、やはり思い込みです。
その人が変化し成長するために、その人にどのぐらいの時間が必要なのかは、個性によってまちまちです。その多様性を受け入れ、謙虚になる必要があると思います。

今回は、前回述べたことを、すこし違う角度から論じてみました。

関連記事:自己否定の氷を溶かす⑤
心理カウンセラー 種村修 (種村トランスパーソナル研究所)
※メールカウンセリングや電話でのカウンセリングを行っています。
<連絡先>
電話 090-8051-8198

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