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学びと依存②・・・自己信頼の欠如



依存の強い時、人は自分自身を信じることができないでいます。
自分が信じられないので、誰かに依存するのです。

自分を信じられないと、自分の感性も信じられません。
ですから、相手がおかしいと感じても、心の警告を無視してしまいがちです。
そして依存する方向へと自分を説得します。
「自分はダメだが相手の方は素晴らしい。だから、自分は今の自分を捨ててもっと素晴らしくなりたいから、その人の言うとおりにしよう」
こうなると、みすみす自分の自由と自分の個性を失ってゆく道に入ります。

もし本当に素晴らしい方であっても、相手は相手の個性があり、そのうえでの言動であり行動なのですから、別の個性である自分がその形だけをまねても、所詮は物まねでしかありません。
単なる物まねをしているときは、自分の立場や自分の個性にそぐわないために、周囲から違和感を持たれるに違いありません。
でも自分はなかなかそれに気が付きません。

自分を信じれないと、自分でない誰かになろうと一所懸命になってしまいがちです。
そして借り物の信念や考えや感覚を、あたかもそれが最高のものであるように顕示するようになります。

これが洗脳ですが、洗脳は自分が進んでされていくのです。
依存するからです。
依存する理由は、自分を信じれないからです。
自分を信じる、自分の心の声や感性を信じてそれに耳を傾ける。
たったそれだけのことが、主体性や個性の喪失、人生喪失の危険な淵から、私たちを守ってくれます。

<連絡先>
お悩みがあればお気軽にご相談ください。
種村トランスパーソナル研究所(心理カウンセラー・種村修)
℡:090-8051-8198
メールアドレス:tanemura1956@gmail.com


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自己特別視と依存の心理

自分を特別視して肥大した自我を持つ人には、しばしば依存心が見られます。
プライドが高く自分は特別にすごい人間だと、内心思っているのに、世間で通用するような実績や成果が出ないで屈折する人がいます。 素質を持ちながらも、この人の心理の奥に依存心が潜んでいて、それがその人の努力と成長を妨げているのです。
よくあるケースとして、生育過程でその人が親や祖父母から特別扱いをされ、それゆえに自己特別視と依存の心理が育ってしまう場合です。
ある男性の家系では、3~4代前のご先祖の当主が自殺したそうです。それまで栄えていた家は、そこから暗転し、それ以降は、家系には男子が恵まれず、産まれても育たずに早死にし、女性によって細々と血筋が守られてきました。 その男性は、この家系にようやく生まれ育った待望の男児でありました。 ですから、祖父母やご両親の愛情と期待を一身に受けながら、特別な存在として大切に育てらたのです。 この男性にとっては、自分は特別な存在であるということは周囲から植えつけられた、空気のように当たり前の固定観念でした。そして非常に大事にされて育ったので、自分は特別な存在だから愛される、愛されて当然の存在だという気持ちも無意識に育っていたのです。それは依存心につながるものでした。
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