前回、「至高体験」について述べました。マズローの欲求段階でいう「自己超越」の段階です。
この境地に到ると、「怒り」や「憎しみ」とは全く無縁となります。
自他は一体であるという感覚をつかむことができるからです。
そして、「幸福感」と「感謝」に満たされるからです。
そこに「怒り」や「憎しみ」が入り込む余地は全くありません。
逆に、「怒り」や「憎しみ」から離れないと、「自己超越」の境地に到ることはできません。
そうしてみると、これらの破壊感情は、「自他を分け隔てた」境地の中で生まれるといえます。
この境地に到ると、「怒り」や「憎しみ」とは全く無縁となります。
自他は一体であるという感覚をつかむことができるからです。
そして、「幸福感」と「感謝」に満たされるからです。
そこに「怒り」や「憎しみ」が入り込む余地は全くありません。
逆に、「怒り」や「憎しみ」から離れないと、「自己超越」の境地に到ることはできません。
そうしてみると、これらの破壊感情は、「自他を分け隔てた」境地の中で生まれるといえます。
また、これらの破壊感情を持つことで、さらに自他を分け隔てることになります。
この自他を分け隔てる感情は、「自我」とも言われます。
ウェン・ダイアー博士は、これを「エゴ」と呼びました。
要するに、「怒り」や「憎しみ」は、「自我」から生まれ、「自我」を増幅させる方向に自らの心を向かわせます。他のマイナス感情も同様であろうかと思います。
これらの感情を持つことに罪悪感を感じるならまだ救いはありますが、これらの感情を持つことを「正当化」してしまうと、大変危険な方向に自らの心を向かわせることになります。
まさしく、「悪魔の誘惑」といっても過言ではないでしょう。
「悪魔の誘惑」というのは、人々の「欲望を誘う」ということが代表的なものですが、この「怒りと憎しみを誘う」ことにも注意をしなくてはいけないと思います。
とくに「正義感」や「自尊心」などに訴えてくることがあるので、十分な見極めが必要です。
私達は「愛」と「調和」が、「怒り」や「憎しみ」よりも、はるかに価値があることを知っています。
自らの心境を高めるには、何を捨て、何を選ばなければならないかがわかるはずです。
自らの存在のみならず、他者の存在も尊重することの大切さ。
自分のみを益するのではなく、他者との調和を大切にしていくことの大切さ。
「愛する」気持ちをもったときに生まれる幸福感。
多くの人の役に立ったときに生まれる心の満足感と喜び。
心を静めて、自らの内を深く見つめてみれば、必ず透明感あふれる清らかな源泉を見つけることが出来るはずです。
この自他を分け隔てる感情は、「自我」とも言われます。
ウェン・ダイアー博士は、これを「エゴ」と呼びました。
要するに、「怒り」や「憎しみ」は、「自我」から生まれ、「自我」を増幅させる方向に自らの心を向かわせます。他のマイナス感情も同様であろうかと思います。
これらの感情を持つことに罪悪感を感じるならまだ救いはありますが、これらの感情を持つことを「正当化」してしまうと、大変危険な方向に自らの心を向かわせることになります。
まさしく、「悪魔の誘惑」といっても過言ではないでしょう。
「悪魔の誘惑」というのは、人々の「欲望を誘う」ということが代表的なものですが、この「怒りと憎しみを誘う」ことにも注意をしなくてはいけないと思います。
とくに「正義感」や「自尊心」などに訴えてくることがあるので、十分な見極めが必要です。
私達は「愛」と「調和」が、「怒り」や「憎しみ」よりも、はるかに価値があることを知っています。
自らの心境を高めるには、何を捨て、何を選ばなければならないかがわかるはずです。
自らの存在のみならず、他者の存在も尊重することの大切さ。
自分のみを益するのではなく、他者との調和を大切にしていくことの大切さ。
「愛する」気持ちをもったときに生まれる幸福感。
多くの人の役に立ったときに生まれる心の満足感と喜び。
心を静めて、自らの内を深く見つめてみれば、必ず透明感あふれる清らかな源泉を見つけることが出来るはずです。
その源泉、つまり本来の自分にたどり着いたとき、自己を超えた存在を感じることができるはずです。
小さな「自我」を乗り越えて、本来の自己に出会うため、そうした大いなる価値を持った自己に出会うために、どうか「悪魔の誘惑」には負けない勇気を持っていきたいと思います。
そのような気持ちを分かち合える人々が増えていくことを強く願っています。 (大)
小さな「自我」を乗り越えて、本来の自己に出会うため、そうした大いなる価値を持った自己に出会うために、どうか「悪魔の誘惑」には負けない勇気を持っていきたいと思います。
そのような気持ちを分かち合える人々が増えていくことを強く願っています。 (大)
<連絡先>
電話:090-8051-8198
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