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命の炎を燃やせ①-傷を癒す(1)


傷を癒す(1)

「命の炎を燃やせ」というタイトルで、10回にわたって私の思想を書いていきたいと思います。これは私自身が経験のなかからつかみ取った思想であり、人生を復活させる思想でもあります。心理学の修行の中でつかみ取ったものを、シリーズで書き記し、読者のお役に立ちたいと思います。

(1)受容される時

 心は人生の中で、大きな傷を受けることがあります。人に愛を裏切られて捨てられた時、人生の夢が打ち砕かれて方向を見失ったとき、正しいと信じて飛び込んだ宗教が間違いだったと気づいた時、レイプされた恐怖の経験等。それらの経験は、いずれも大きな心の傷が生まれます。

 それよりもさらに大きな傷は、他の生命を害してしまった時です。小さい頃、犬の赤ん坊を虐待して殺してしまった記憶や、嫉妬していた弟を水辺でおぼれ死なせてしまった記憶。自分が取り組んだ政治運動で多数の死傷者が出た経験。自分のアドバイスで人が結婚に失敗したり、就職に失敗して不幸になったと知った時の負い目。自分の不注意で子どもを死なせてしまった後悔。人を害したことによる心の傷は、自分自身が害されたときよりも、何倍も深いといえます。それは深い罪悪感をともない、自己処罰の願望が生まれます。

 こうした心の傷を、どうすれば癒すことができるのでしょうか。心の傷は、それを癒さないでいると、いつまでも傷口からは膿が出続け、痛みが治まらないものです。

 心の傷とは何なのでしょうか。それは愛を裏切り期待を裏切って自分を愛してくれる人を苦しめたことへの後悔であり、人を傷つけその人の苦しみを感じ取った時の苦しみであり、自分自身が打ちのめされ、みじめになることではないでしょうか。

 私はその心の傷を癒す方法は、自分の心の中にため込んで封印してしまわずに、誰かに話して聴いてもらい、その時の自分の感情を理解してもらい、そんな自分自身を受け入れてもらう体験だと思います。決して裁かずに、そこから離れて立ち上がり、その中から何かを学び取って成長することを信じて聞いてくれる人に出会うことだと思います。ありのままの自分を理解し、受け入れ、愛してくれる存在に出会うことだと思うのです。

 そういう存在に出会うことは、誰しも願っても得られないと思うかもしれません。しかし、意外と私たちは、家族や友人、はたまた心理カウンセラーやカトリックの司祭などに出会い、聴いてもらう時に、癒されているのではないでしょうか。私も自分自身の罪を、隠すことなく話して、かつ裁くことなく、成長を信じてくれた人に出会えた時に、自分自身が癒されて、再起できた経験があります。(次回に続く)
 

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自己特別視と依存の心理

自分を特別視して肥大した自我を持つ人には、しばしば依存心が見られます。
プライドが高く自分は特別にすごい人間だと、内心思っているのに、世間で通用するような実績や成果が出ないで屈折する人がいます。 素質を持ちながらも、この人の心理の奥に依存心が潜んでいて、それがその人の努力と成長を妨げているのです。
よくあるケースとして、生育過程でその人が親や祖父母から特別扱いをされ、それゆえに自己特別視と依存の心理が育ってしまう場合です。
ある男性の家系では、3~4代前のご先祖の当主が自殺したそうです。それまで栄えていた家は、そこから暗転し、それ以降は、家系には男子が恵まれず、産まれても育たずに早死にし、女性によって細々と血筋が守られてきました。 その男性は、この家系にようやく生まれ育った待望の男児でありました。 ですから、祖父母やご両親の愛情と期待を一身に受けながら、特別な存在として大切に育てらたのです。 この男性にとっては、自分は特別な存在であるということは周囲から植えつけられた、空気のように当たり前の固定観念でした。そして非常に大事にされて育ったので、自分は特別な存在だから愛される、愛されて当然の存在だという気持ちも無意識に育っていたのです。それは依存心につながるものでした。
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価値観の偏りの修正

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