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命の炎を燃やせ①-傷を癒す(2)



傷を癒す(2)

(2)心の底にある力

(前回から続く)

 結局私たちは、そういう経験をした自分を、自分自身が受け容れることができたときに癒されるのではないでしょうか。人に受け入れてもらう経験は、自己受容するための大きなきっかけになります。しかし、いくら人が裁かずに受け容れて理解してくれても、自分が自分を受け入れ、自分を許せないことには、癒されないと思います。それが癒しの鍵だと思うのです。

 では、自己受容はいかにして可能となるのでしょうか。それは、この世で生きてもがき苦しんでいる自分の心を、ありのままに見つめ、今ここが自分自身のスタート地点である、ここから出発するのだと受け入れることではないでしょうか。ありのままの自分を受けいれるとは、いまの自分自身をよく観察し、感じ取って、自分が、ここから出発しようとしているというスタート地点をまず受け容れることではないでしょうか。

 その時に、表面の自我意識だけでは、それをなしきれないことを私は知っています。もっと深いところにある意識、自我ではなく自己と言われる中心的な意識に触れてこそ、それをなし得ると思うのです。内側から癒す力が湧いてくるのです。自我ではなく自己に触れるときに、自分を癒し刷新していくエネルギーが湧いてくるのではないでしょうか。

 私は、その典型を哲学者の西田幾多郎氏の和歌に見ることができると思います。西田幾多郎氏は、大学入学寸前の長男を腹膜炎で亡くし、脳溢血に倒れた最愛の妻を看病の甲斐なくその五年後に亡くし、同時に病弱な三人の適齢期の娘を抱えて、孤独の中、悲哀の人生を送った時期がありました。この時に詠まれた西田幾多郎の和歌は、苦しみの深さを切々と伝えています。

 運命の鐵(てつ)の鎖につながれてふみにじられて立つすべもなし

 しみじみと此の人生を厭いけり今日此の頃の冬の日のごと

 かくして生くべきものかこれの世に五年こなた安き日もなし

 ところが、こうした悲しみ苦悩のさなかにあって、西田幾多郎氏は、こんな歌も詠んでいるのです。

 わが心深き底ありよろこびも憂いの波もとどかじと思う

 これは西田氏が参禅のなかで心の深い底にある「自己」に触れていたからこそ到達しえた境地だと思います。

 私は、丹田呼吸法、そして瞑想によって自分を深く見つめてありのままの自分を受け入れていく営みが、こうした境地へと私たちをいざなってくれると思います。私たちの心の深いところには、自分の運命を受け入れ傷を癒してくれる不思議な力があると思います。それは私たちの魂の奥底に働いている、大いなる愛だと思います。その愛に触れるからこそ、癒され、再起する力を得られるのではないでしょうか。(種村)

<連絡先>
種村トランスパーソナル研究所
所長兼心理カウンセラー 種村修
電話090-8051-8198
メールアドレス:tanemura1956@gmail.com

 

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