(前回から続く)
3.影の統合
私達は誰でも、「自分はこういうひとだ」という自己概念や、社会的な立場から「私はこういう人間だ」というペルソナ(仮面)と言われるものを持っています。それに合致しない思いは、否定して、なかったことにしてしまおうと無意識的に拒否したり、自分でも受け入れられるような解釈に歪曲してしまいます。
例えば、人を呪詛して呪い殺したいという思いが湧くことがあると、そんな恐ろしい自分を認めたくないので、それは私ではないと意識が否定するのが普通です。でも、殺したいほど人を憎んだことがないかと言われれば、そういえばあの時にそういう思いを出した自分があったと、気が付く場合があります。この場合、人を呪詛する心があるわけです。そういう自分があるということを認めるのが「潔く自分を受け入れる」ということです。これが自分だと認めることができると、それをコントロールしたり、どうしてそう思ったのかという原因を考え、修正し、そういう思いをコントロールすることはできます。
その時に、大切なことは、そういう嫌な自分を発見したら、それによって自分を責めたり、裁いたりしないということです。それは自分がそこから何かを学ぶ為に経験したことであり、そこで学んだ教訓を生かして、過ちを犯さない自分に変わればいいのです。決して裁かない心を持って、そうせざるを得なかった自分自身を受け入れるのです。その時には苦しみや悲しみや、そうせざるを得なかった事情があるはずです。それを受け入れ、丁寧にその時に起きた自分の感情や思考を辿っていくのです。そして、ここから出発しようと自分自身を受け入れるのです。
受け入れるとは肯定や正当化ではありません。自分を振り返り、「そこから何を学んだのですか」と自分に問いかけて、同じ状況が出ても、二度と同じことをしない自分になれるように思考や傾向性を修正するのです。
これを「自分に向き合う」とか「対決」と言います。特に自分自身に特徴的なマイナスの思いは「影」と呼ばれ、心を浄化していくプロセスでは影との対決は避けては通れません。その際に一番難しいのは、その影は自分自身であることを認めて受け入れることなのです。その時に、影は自分にとって必要なエネルギーとして、自分を害さない何かに変化します。これを統合の作業というのですが、影は自分の意識に統合されると、個性を支えるエネルギーとして働くようになります。
以上が自己浄化のプロセスですが、私たちは自分の過去の人生の中で、さまざまに抑圧して封印している思いや行いがあります。
私にはこんな嫌な思い出があります。小学2、3年生ごろだったと思うのですが、学年が一年上の隣の男の子と一緒に、野良犬が産んだ赤ちゃんの犬をかわいがっていました。本当は飼いたいと思ったのですが、親には絶対にダメだと言われていました。その日は水田の水が表面が凍るほど寒い日でした。私とその友人は、子犬を持て余しました。どこまでもついてきて離れようとしないからです。困ってしまって、氷の張っている水田に子犬を投げ込みました。するとその子犬は悲しそうに鳴きながら私たちのいる土手に戻ってくるのです。パニックになって、その子犬を何度も何度も水田に投げ込んで、結局寒さと疲労と、投げつけられた衝撃でぐったり来て、死んでしまいました。私たちは、さらにパニックになり、その子犬を近所の家の片隅に横たえて逃げました。途中で、その家の人に呼び止められたのですが、しらを切って逃げました。
私はこの体験をずっと封印してきました。しかし、何度も何度も思い出されるのです。そこで私は潔く受け入れることにしました。そして告白しました。
「私は冷血漢で、自分本位で、動物虐待するような心が確かにありました。自分が飼えないのになついてくる子犬を持て余して、殺してしまうような残酷で自分本位の心がありました。それをすごく後悔しています。」そう告白できました。
その時に、私はやっと自分がこの記憶から解放されたことを知りました。子犬が生き返って、しっぽを振りながら嬉しそうに私にじゃれてくるのをイメージできるようになりました。それと同時に私は気が付きました。「虐待そのものは、もうその後していないかもしれない。しかし、自分の都合で家内を無視して仕事ばかりして孤独な思いをさせたりして、自分本位の冷血漢な自分があった」と気が付いたのです。そして同じことをしないように、戒めるようになりました。
こうした作業を、一つ一つしていったときに、私たちの心は浄化され、軽く清らかとなり、本当の自己ともつながりが回復できるようになります。そして自分自身を受け入れ、愛することができるようになるのです。(種村)
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