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明治神宮での気づき

最近はパワースポットを求めて、若い人や外国の方が神社にお参りされる姿を目にするようになりました。伊勢神宮に参拝したおりは、神宮内の御神木に手を当てたり身をよせたりして、「気」を感じている人の嬉しそうな姿が印象に残りました。
東京の最大のパワースポットである明治神宮にも、本当に多くの人がお参りされています。明治神宮は、鳥居を一歩入った雰囲気のすばらしさは格別です。さらにここでの参拝の楽しみは、お神籤で天皇皇后両陛下の御製や御歌が指針を与えてくださることです。
今年の2月末、明治神宮を参拝したおりも、お神籤をひかせていただきました。 昭憲皇后陛下の御歌 おこたりて 磨かざりせば 光ある 玉も瓦に ひとしからまし
自分の心の磨きについての教えでした。珠玉の個性を宿した心は磨かなければ、瓦ののように光がないものとなるので、常に怠らずに磨き続けよというおさとしでした。
この日の明神神宮参拝では、「私がいつも本を読み、本から離れることができないのは本への依存である」というインスピレーションがありました。 本は誰かが書いたものであり、内容が著者の直接体験したことであっても、読み手にとっては知識でしかありません。
自らの五感と心で直接体験して究めることを大切にしなければならない。
そういう思いが強く湧き上がりました。
「本の虫になるのが怖い」と感じたのは中学生の時でしたが、それ以来私は、活字に依存するあまり、五感と心を使って直接体験してつかむという努力が非常に希薄だったと思います。
本の中での知識では、他人の体験や枠から一歩も出れません。若い時に基礎をつくる上では読書も大事だったかもしれませんが、自分の心を知る探究をし始めると、自分の心や個性について書いた本はありませんので、読書は役に立ちません。
本を閉じて心を見つめる。 いろいろ経験してその時に自分が感じたことを注視する。 自分を見つめることを通して、宇宙へとつながっている自分自身を発見する。
そのためには、まず本を閉じることが必要で、「本を読むことは努力ではなく怠けである、逃避である」という気持ちがすごく強くなっていました。
本を閉じて自分に向き合う。それは依存心を断ち切ることである。 そう思いました。 現在は、ほとんどの本を処分して、もっぱら自分自身の五感と心で感じたことで自己を探究する日々を過ごしています。
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感情の重要性

知識社会の現代では、知識とそれを使っての思考が尊ばれ、それに比して感情は一段立場の低いもので、どちらかというとやっかいなものとして扱われる傾向が強いと思います。
和歌が尊ばれ、そこで奏でる感情の美しさ豊かさや感性の鋭さが尊ばれた平安時代とは、大きく違うと思います。
私個人でいうと、感情は悟りの妨げという思い込みがあり、知識と思考偏重の価値感に長く染まっていました。
しかし、カウンセリングでは、人間にとって感情がいかに大事な役割を果たしているかを痛感します。
思考というのは、比較的忘れやすいものです。その思考も、感情や意志を伴って信念にまでなったものは忘れることはありませんが、たんに色々頭で考えた内容は、数年もすればほとんど忘れてしまいます。過去を振り返ってみても、その時期の思考だけを切り出してはっきり思い出すことは困難です。
思考よりもっと忘れやすいのは知識です。それは、テストが終わるとすぐに教科書の内容を忘れてしまった学生時代を振り返るだけでうなずけます。記憶力の良かった青年時代ですら、記憶の定着には相当な努力が必要でした。
それに対して、感情は、そう簡単には忘れません。相当以前のことであっても、傷ついた感情、悲しみ、怒り、喜び、そうしたもので特に強い感情は、しっかりと記憶に残っています。その時の情景や思考内容を忘れていても、その時期の感情は残りやすいので、感情を手掛かりに思い出すことができます。
つまり感情というのは、覚えておくことができるものなのです。だから強く残っている感情を手掛かりに、自分が経験し、しかも抑圧していた気持ちを掘り起こすことで、過去の自分と向き合い、心の傷を癒したり自分の壁を乗り越えることができるのです。
深層潜在意識にあると思われる過去世の記憶であっても、感情をまず感じ取れるようです。その感情を思い出し、その延長線上で見えてくるものを手繰りよる方が、正確に過去に経験して傷となっている内容に辿り着きやすいと言えます。なにを過去世で考え経験したか、思考として取り出すことははるかに難しいです。
このように感情は覚えておきやすいものなので、反省に使えるのです。反省は失敗など起こってほしくない出来事、自分として繰り返したくない出来事が起きたとき、それを繰り返さないためのするものだと思います。つまり自分に修正をかける作業です。
何かで失敗した時に、その時にどういう感情が…

境界線を引く

私たちはその日の自分の体調や心境やエネルギーの状態によって、どの程度のところまで境界線を伸ばせるか、もしくは境界線を狭めるかを決める必要があります。
エネルギーが乏しく体調が悪い時に、自分の境界を広げすぎると、非常に疲れます。そして相手からの影響、職場からの影響を受け過ぎて、心身のバランスを崩します。
そういうときにはのりうつりの影響も受けやすく、相手にも飲み込まれやすくなります。
さまざまな汚れを受けやすくなるのも、そういう時です。
私は以前、マンションの管理人として掃除の仕事をしている時に、目に見える汚れにはよく気が付くようになったのですが、目に見えない汚れに気づくことがなかなか難しかった経験があります。
何でもないところを掃除していて、突然足の関節が痛くなり、足を引きづりだしたことがありました。よくよく振り返ってみると、外からのエネルギーの影響であり、そのマンションの住民に膝関節の悪い人がいたと思われます。そのエネルギーを吸い込んでしまっていたようです。それに気づいたら、その痛みはとれました。
外からのエネルギーだと気づいたということは、自分と人のエネルギーの間に境界線を引いたことになります。内と外の境界線を引かないと、外のエネルギーと自分のエネルギーが一緒くたになり、外からの影響を受け続けます。しかし境界線を引くと、外からのエネルギーを分離できるので、影響を受けなくなります。
こういう経験から私も注意深く意識するようになりました。 まずその日の自分の体調を感じとり、自分の心境とエネルギーの状態を感じとります。そのうえで、自分の境界をどこまで拡大するか、縮小するかを決めます。 体調の悪い時は境界を小さめに設定する必要があります。決して無理せず自分をしっかり守り、ミスがない仕事をします。 体調がよく、エネルギーが満ちている時は、それを拡大することが可能です。そういう時は、人への影響を増やせます。
境界を意識するということは、人との間合いを考えながら仕事をするということです。自分の個性を常に輝かせて生きるためには、そうした工夫も必要であると思います。
心理カウンセラー 種村修 ※メールや電話でのカウンセリングを行っています。 <連絡先> 電話 090-8051-8198
メール tanemura1956@gmail.com

微妙な欲の違い

欲は基本的には肯定するべきものだと思います。 欲は人間が生きていく上で必要不可欠なものだからです。
欲にとらわれていくと身を亡ぼすもとにもなります。 でも、とらわれなければ、欲に問題はないと思います。
自殺したくなるほどつらい時期であっても、欲が強く働いてがむしゃらに生きた場合は、自殺の誘惑に打ち勝つことができます。 欲は生きる意欲とも密接に結びついていると思います。
問題は、その欲にとらわれるかどうかですが、この問題を取り扱う際に、微妙な違いについて見極めておくことが必要です。その違いとは、
自分から出た欲なのか、 他人の欲が乗っかってきた欲なのか、
の違いです。 この違いを感じ取り確認する必要があるのです。
自分から出た欲であれば、必要なものです。その欲を否定して抑圧しなければ、欲は自分を生かし成長させる方向へ活用することができます。
しかし、他人の欲が乗っかってきている場合は、その欲が自分を滅ぼす方向に作用することがよくあります。必要以上に欲に捉われて、欲に振り回されて、自分を損なう恐れがあるのです。
例えば酒に飲まれている場合は、酒を飲みたい欲を持った他人のエネルギーが自分に入り込んで、そのエネルギーに操られて飲み込まれている場合があります。酒場などで、そういうエネルギーを吸い込んでしまうと、酒に飲まれて酒の上の失敗を経験します。
その違いは何でしょうか。 欲を認めて、欲を見つめていると違いが見えてくるはずです。
そしておかしいなと思ったら、他人の欲に呑み込まれているのではないかと疑うのです。酒のケースでいえば、酒を欲している他人のエネルギーに憑依されて操られているのではないかと、点検するのです。
自分から発した欲を適正な限度にとどめようと格闘しているのか、 それとも他人の欲に振り回されてもがいているのか、 それは大きな違いです。 他人の欲を自分のものだと勘違いしてしまうと、コントロールできなくなります。自分の欲と他人の欲の間に境界線を引くことで初めて、他人の影響を退けることができます。 だから、まず微妙な欲の違いに気づくことが決定的に大事なのです。
自分の欲の中にも、微妙な違いがあります。 それは本当の自己に近い欲なのか、肉体に近い欲なのかという違いです。
本当の自己の欲といっても分かりにくいのですが、魂の欲求とか個性自体の欲求という言葉で、少し感じがつかめるかもしれません。より向上し成長したい、もっ…

富の考え方

少し前の話ですが、職場まで1時間半ぐらい移動にかかっていた時期がありました。 仕事は楽しくて好きなので元気な気持ちで終えるのですが、帰りの電車に乗っている間にぐったりとしてきて、帰宅するころにはすっかり疲れきっていました。当時は自宅から歩いて数分のところで仕事をしている人の話を聴くと、とてもうらやましく思えたものです。
それが自分をもう一段変えたくて、そのためにも仕事を変えることを決意して探し出すと、自宅の近くに手ごろな職場を見つけることができました。通勤にかかる時間は7分です。歩いて通う間に、自分の意識のモードを切り替えることができるので、とてもありがたいです。
それに伴って、身体が非常に楽になりました。疲労が軽減し、より健康になったのです。
得られる収入は、前の職場では徐々に時間をかけて得れるようになった水準を、最初から得ることができました。その面でもラッキーです。それに体が楽になったので、とてもありがたく思いました。何より、移動時間が圧倒的に短縮できたので、別の事がいろいろできるようになりました。
富という言葉で私たちは、通常お金のことをイメージします。 しかし、富をお金に限定するべきではないと思います。
収入だけでなく、自由にできる時間も富だと思います。それは大幅に増えました。
また健康も富だと思います。実際問題、過労気味だった時は、疲労回復にお金を書けてもいましたから、健康の増大・疲労の軽減は富の増大です。体力が残るのは富が増えたと言えます。
それ以外にありがたく思ったのは、以前の仕事はほぼ一人で行う仕事であったのが、新しい仕事先は年齢層も男女もいり混じった職場であったので、人との接触が飛躍的に増えたことです。学生さんから定年後の人まで幅広くいます。主婦で子育て中の方から、独身で自立に向けて頑張っている青年まで、さまざまな人と接することは、非常に刺激的です。
若いころはいろいろな人の間で働くのは当然と思っていたのですが、年齢を重ねて一人に任された孤独な仕事も経験した後では、それは大変ありがたい経験だと思えるのです。 人とのつながりや、人との関係での経験は、これも富だと思います。そういう富も増えました。
新しい仕事をする中で、自分の中に眠っていた新しい側面が成長を始めました。新芽を出し、それを育てている感覚があります。ものを創るという側面が成長し始めている気がします。創造は大宇宙…

未来への不安

ある方は、未来への不安をよく口に出しました。
年齢が高くなってくると、経済のこと、病気のこと、死のこと、家族が死んで自分が一人にならないかということ、さまざまな不安が押し寄せてきます。 そういうことが現実の可能性としてゼロではないので、不安な未来を考えだすと、いくらでもその不安が増大していきます。 その結果、気持ちが暗くなり、重くなり、消極的になっていきます。
そのような毎日を送ったら、どういう未来が起きるかといえば、より暗い未来を引き寄せるのではないでしょうか。
未来を信じていないと不安になります。 その結果、さらにその不安の実現を促してしまいます。
未来を信じないとき、自分を信じていません。 うつ状態を経験した時に、私はそのことをはっきり知りました。 うつは自己否定の病気です。 自分への否定を持っていると、自分の未来が信じれなくなります。
未来が信じれない時には、肉体的な衰えもありました。 肉体的な衰えによって、自信がもてないのです。 肉体が健康になると、それは変わります。
未来を信じるということは、自分を信じるということです。 自分の未来が明るいと信じることです。 これは自分への信頼です。 今の自分への自信が揺らいでいると、自分の未来に自信が持てません。
まずは未来を信じれない自分は何処から来ているのか、それを探究することが必要ではないでしょうか。
心理カウンセラー・種村修(種村トランスパーソナル研究所) ※メールや電話でのカウンセリングを行っています。ご希望の方はご連絡ください。

原点をどこに置くか

今までのことをやめて新しくことを始める時に、その原点の思いをどこに据えるかは非常に重要なことです。
その重要性を説明するために、今までの職場を辞めて、新しい職場を探す転職を事例に上げたいと思います。
転職の原点となる思いが「マイナスを転じるため」であれば、原点はマイナスとなります。つまり転職の初心に立ち返り原点に戻ったら、そこはマイナスになります。 だから、「マイナスを転じるために」を原点に置くことは好ましくありません。
始まりは、常にそこに立ち戻る場所です。それが原点です。 原点は初心とも言います。 それをマイナスに置いてよいのでしょうか、ということです。 初心をどこに置くのか、自分が常に立ち返る場所を自分で決めなくてはなりません。
転職は、生易しいことではありません。 特に中年になってからであれば、肉体的にも精神的にも経済的にも、さまざまな困難が伴います。そのつど、初心を思い出し、原点に戻るのですが、その原点がマイナスであれば、明るい未来が開けるとは思えません。
やはり原点は自分が常に立ち返る場所として、自分の覚悟を確認するために、困難に立ち向かえる原点・初心を定めたいものです。 自問自答するべきは、「新しい人生のスタートとして、自分はどうありたいのか」です。 それを立てないと前に進めません。
神社でお参りし、祈願するのもいいでしょう。 しかし、神道には、祈るならまず己の決意を示せという精神が流れています。 そして、自分を最高に発揮することこそ最高の誉れなり、とする高貴な精神が流れています。
決意こそがその人です。 決意とは始まりの思い、それをまず固めなくては始まりません。
私のささやかな経験ですが、経済を何とかしたいというマイナスを原点にした時の転職は、非常にもろいものでした。 しかし、自分が「責任を取りきる人間に変わりたい」という決意を原点に据えた転職の時は、仕事では筆舌にしがたい困難苦難が続きましたが、心はもちこたえ初心を貫き、最終的には納得のできる成果を上げました。この経験は自己信頼を高める大きな経験でした。
「自分を変える」という決意を原点にした時、常にそこが立ち返るスタート点となります。「自分を変え、自分を最高に生かしきるためにこの職場を選んだ」という決意を初心とすると、やはり迷った時に常にそこに立ち返り、その観点からおのれを見つめなおすことができます。
原点は、マイナスに置いてはいけませ…