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丹田を動かすために①・・・他人の念の影響への対処法



丹念を動かなくなった仕組みがわかれば、それを一つ一つチェックして取り除くと、丹田が再び動くようになります。

すると丹田を動かすためにまずすることは、「他人の念を受けているのに気が付かない」ことがないかどうかチェックすることです。
悩みの相談をうけて誰かが頼ってこられた時は、その人のエネルギーがくることが少なくありません。誰かに思いを強く寄せられてもエネルギーが来ます。誰かに恨まれてもきます。こういう時、恨みの念が来ているという言い方をすることもあります。

お葬式に出て、急に体が重くなったという経験は、多くの人が経験しています。火葬場に行くと、さらにてきめんです。こういう場合は、死者のエネルギーがくっついてきている場合が少なくありません。葬儀を出した人だけではなく、その場に滞留していた死者の霊がのりうつることもあるのです。

それとは別に、先祖に不遇な死に方をした方がいる場合、子孫がその影響を受けて家運が傾くこともあります。これも死者のエネルギーが影響しています。

これらの話は、世間で経験している人が多い出来ごとです。肉眼には見えなくて感じるだけですし、敏感に感じる人とあまり感じない人がいます。だから信じる人はその経験を確信しているのですが、感じず信じない人は頭から否定します。そういう難しさがあります。

ともあれ、生きている人や死者のべつはありますが、誰かのエネルギーに影響され思考や体調が影響を受けることはよくあることです。

丹田が動くというのは、自らの深層潜在意識との交流ができる状態です。またユングが唱えている集合的無意識の世界との交流ができる状態だと思います。自分の内にある目に見えないエネルギー源(潜在意識)からエネルギーの供給を受けるので元気になりますし、直感が鋭くなります。

ですから丹田が動かない状態では、そういうエネルギーが得られないので他から奪うかもしくは食料などで物質的に補給するしかなくなります。また直感が働かないので本質が見抜きにくくなったり、勘の冴えがなくなります。
体が重かったり、頭が痛かったり、朝が起きづらかったりします。
つまりのりうつりの有無は、心身の状態である程度正確に感じとることができるものなのです。

さて、他人の念を感じたときにそれを取り除く方法には、大きく二つあると思います。

ここで大事なことを申し上げたいのですが、大前提として、何が来ているのかに気づくということが最も重要です。つまり見抜くことです。これがないと飲み込まれていくからです。

だれだれの念が来ているな、その理由はこういうことかなと思えば、そのエネルギーに対して、「誰誰さん、どうか私から離れてください」と心の中で話しかけるといいと思います。自分がそういう念の影響を受けないぞ、離れてくださいと、きっぱりと決意すると、通常は離れていくものです。
くっついていた側からすると、何か理由があってくっついていたのだと思いますので、存在に気づいてもらいたい、理解されたいと思っていたのが叶ったので退いていったとも言えると思います。

恨みや怒りの念が来ている時は、これだけでは離れにくいと思います。憎しみ恨み、怒りをぶつけているわけですので、少しやっかいです。相手のそういう念を受ける理由にもよりますが、少なくとも相手の気持ちを汲み取らないと納得してはくれません。たとえ不当な理由に思えても、そう思うには思うだけの相手の理由があるのです。

この場合、もし恨まれる側に原因がある時は、それをしっかりと反省することが必要になります。そのうえで謝るべきはあやまることです。心の中で謝るだけでもいいと思います。そして間違いに気づかせていただいたことに感謝することができれば一番よいと思います。

そういう原因が思いつかないのに恨まれたり、相手の事情で怒りの念が来ているときもあります。こういう時でも、相手の怒りや恨みのさらに奥にある気持ちまで汲みとり見抜くことができると、そのエネルギーは去ります。

これは見抜かれ汲み取られたということで、そのエネルギーが変化するからだと思います。気持ちがおさまるというか、気持ちが変わるのではないでしょうか。

丹田を常に動く状態に保つということは、実際にはなかなか困難なことです。でも丹田を動かさないと本当の自分の状態で生きることができないのです。何割かは自分でも何割かは別の人の意思で動いているというような人生は、誰にとっても好ましくありません。

関連記事「丹田が止まるとき」


種村修(心理カウンセラー・種村トランスパーソナル研究所所長)
<連絡先>
電話 090-8051-8198

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