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己を縛るもの




私たちは自分の考えや習性が自分自身を縛っていることに、なかなか気が付けません。
しかし、それに気がつけたとき、縛りを脱する可能性が生まれます。
気づきのきっかけは、自分の思いや行動に違和感を感じたときを大切にすることで広がると思います。

ある人は、仕事で自分が小さなミスをした時に、それを上司に言えずに黙ってしまっている自分に気づきました。この人は正直を大切にしたいのに、それに背く自分を見て、どうしてだろうと疑問を持ちました。そして自分の「隠ぺいの癖」に違和感を感じたのです。

振り返ってみると、過去にもいろいろ大きなミスを黙っていた自分がありました。大きな失敗程、それを認めたくない気持ちが働き、本当に、それを忘れたこともありました。ミスした事実を顕在意識で「否認」したいと強烈に思ったので、潜在意識に記憶をおしこめ、本当に忘却していたのです。あとで、大きな問題になってから、それに直面して愕然としました。

カウンセリングで心を見つめているうちに、内心で自分が描いている「理想の自分」と相反する行動が出たときに、それを認めるのが嫌で隠したくなることが見えてきました。

その「理想の自分」とは次のようなものでした。
・失敗しない(自分)
・周りに認められている(自分)
・努力を人一倍する(自分)
・すぐに理解しすぐにできる(自分)

話し合っている間に、この理想の弊害も見えてきました。

「失敗しない自分」を描いているので、失敗すると隠したくなり、失敗から学べなくなっている。失敗は成功の母なのに、失敗を否認すれば、失敗を生かせない。

周りに認められることが理想なので、失敗を隠すのだが、それが露見すると逆に信用を無くしていく。また、自分が納得するという仕事の仕方ではなくて、人の評価を意識する仕事になっている。人に見られる自分が気になるので、人のことを見ていない。

努力主義なので、リラックスとのバランを欠きやすく、疲れて効率が落ちることが多い。結果、怠け者になっている。

すぐに理解しできるのが理想なので、時間をかけてじっくり探究して、本当に理解することができない。すぐにできないとあきらめてしまうか、もうできたと思って探究をやめてしまう。

描いていた「理想」それ自体の弊害とともに、「理想の自分」(こうあるべきだという自己像)を描き、その枠に自分をおしこめようとしていた「思考の癖」の弊害にも気が付きました。
この癖の結果、非常に窮屈な生き方をしていたことが見えてきました。
これは、ありのままの自分の否定となり、自然体で生きることをできなくさせていました。

隠す癖は、「理想の自分」から外れている自分を見せるのが恥ずかしいので、そういう自分を隠したい、という思いによるものだったこともはっきりしました。

要するに、それまでは自分が描く理想が固定化しており、そこに自分を押し込めていたの、問題をまねいていたのです。

ここまで判明した後に、理想を成長させることが必要ではないかとの指摘を受けて、理想を見直すことにしました。

理想を成長させるには、いままでの「理想」(の自分)の弊害を超えるものを打つ出すことだと思い、次のように「理想」を書き変えることにしました。

・失敗をバネにして成長する(失敗しないの修正)
・自分が納得できる仕事を追求しつづける(周りに認められるの修正)
・周りの人を認める(周りに認められるの修正)
・緩急のバランスをとる(人一倍努力するの修正)
・倦まずたゆまずやり続ける(すぐに理解しすぐにできるの修正)

そして、最後に、「理想の自分」の枠に自分をおしこめていた癖を改め、「理想と共に成長していく自分」という気持ちに切り替えることにしました。

この事例は、自分を縛るものが自分の「理想」だったというケースです。

自分を縛るものに気が付き、それを変えてゆくことで、ありのままの自分らしい自分をとりもどし、さらに成長していくことができると思います。

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