私がBという宗教団体で法戦の担当をしていた時に経験したことである。
折伏で名高い日蓮宗系統の某大教団に対し、新興勢力のBは理論的な戦いを挑んで、
自教団の勢力を拡大しようとした。
教団職員の誰もが緊張し、恐れ、これからの闘いに身震いした。
私は、法戦担当として、その教団の教えを真っ向から批判する論文を何本も書いた。
やがてそれは数冊の書籍として発刊され、書店に並んだ。
そのころの私は、鎧兜で身を固め、鋭利な長剣をもって完全武装している自分を常にイメージしていた。
そして自宅でも敵愾心を掻き立て、相手と切り結んでいる自分をイメージし続けた。
半年以上はこの精神状態が続いたと思う。
結果、私は自分自身が阿修羅化してしたことを自覚した。
怒りが強くなり、敵を倒すことに執念を持ち、心が戦闘状態を離れなくなった。
性欲も強くなった。そのコントロールがむつかしく感じて、苦しんだ。
過度のストレスが強い性欲を呼び起こすことを、私は経験した。
B教団の路線が変わり報戦の担当から外れても、1年以上は阿修羅化した状態が抜けなかった。
なぜ私は阿修羅化したのか。
それは折伏教団に対して折伏で対抗しようとし、巨大な阿修羅教団に対し自らも阿修羅化することで恐怖を克服し、敵愾心を掻き立てようとしたからだ。
そう。私には恐怖心があったのだ。
その恐怖心を抑え込むために、自分を完全武装の状態にあるとイメージし、常に敵愾心を掻き立てる必要があったのだ。
当時の私は自分の恐怖心に気が付いていなかった。抑圧したからだ。
心の奥に抑え込んでふたをすることで、任務を追行しようとした。
そのため心にある恐怖心から目を背けた。
自分の恐怖心と向き合えていなかった。
抑圧した恐怖心は阿修羅の仮面をまとう。
強さを演じる自分の奥に弱さがある。
その弱さを自覚しないと、阿修羅というペルソナ、つまり仮面だが、と自分が一体化し、そのペルソナが自分になる。
今なら思う。
B教団への法戦は、穏やかな心で、常に澄み切った波立たない湖面のような心の状態で行うべきだった。
折伏に対しては戦闘モードで戦おうとせず、どこまでも穏やかな心で、湧き出す智慧の刀を振るえたらよかった。
相手だけを切る刀ではなく、己の過ちをも切り取る智慧の刃で相対するべきだった。
そうすれば自分も阿修羅化しなかったはずだ。
自分の恐怖と向き合う勇気が欠けていたのだ。
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