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命の炎を燃やせ③―愛の心を育む(1)

                           
 
1.愛の心が出る条件

 
 私たちは愛の心を出せるときと、まったくと言っていいほど出せない時があります。愛の心が出せるときは、自分自身を愛せるときです。愛の心が出せない時は、自分を愛せない時です。

 私は自分を振り返ってみて、自分に対する向き合い方が、人への向き合い方と呼応していることに気が付きました。

 人の評価が気になって、人のまなざしや言葉の微妙なニュアンスに心が揺れるときは、私自身が人からの評価や愛を非常に渇望している時でした。その奥には、自分が自分を評価できず、愛せないために、周囲の評価や愛によって自分自身の心の空虚さ、心の傷口に栄養を欲していたと思います。

 それが変わったのにはいくつかの段階があるのですが、自己に対する認識が変わっていくのと呼応していました。私は40代前に職を失い、自分のアイデンティティの危機を迎えました。この時点では、それまでの人生への後悔や知らず知らずのうちに人を不幸にしたことへの罪悪感、自分の将来への見通しがつかない不安、世間での評価が得られない苦しみ、自分自身への自信喪失。そうしたマイナス感情におしつぶされそうでした。そのために人からの愛を欲しており、それなしには生き続けることができないような気持ちを味わいました。プライドと劣等感のギャップから心が傷ついていました。こうした時に、自分から愛の波動が流れ出ることは難しかったと思います。

 ただ唯一の例外があるとしたら、小さな幼稚園に通っている子供の世話をしている時に、私が昔父からしてもらったように子供を愛せたことでした。子の時間だけは、愛の気持ちを持てたと思います。やはり子供を世話すると、自分が同年代に持った感情や記憶がよみがえるため、私はその時代が幸福だったので、自然に愛を出すことができたと思います。

 
2.自己信頼の二つのステップ

 
 私が自分自身を好きになり、ありのままの自分を評価できるようになったのは、二つのステップがありました。一つ目は、自分が偉大な太陽から放たれた一本の光線であるという認識が、イメージとして潜在意識から上がったときでした。これは私の自己信頼の核になる元型体験でした。それまでもいくつかの宗教思想を学んで、「人間神の子」「人間には等しく仏性がある」という思想は、知的には理解していました。しかし現実の自分とのギャップに、とてもそうした確信は持てませんでした。しかし、この時の元型体験で、私は太陽から放たれた無数の光線の一筋として、自分自身をとらえることができたのです。この体験から得た自己信頼は、非常に強いもので、その時携わっていた会社再建の原動力にもなりました。

 第二のステップは、最近のことです。それは自分が超越心理学を探求する過程で自分自身の根源にある「自己(self)」の意識と対話できるようになったことです。それによって、自己信頼の次なる段階に進めたように思います。素直に自分を超越潜在意識の分化した存在としてみることができるようになりました。普遍的な超越潜在意識から分化した存在が「自己」であり、そこと常に交流ができる安心感が湧いてきたのです。

 「自己」を自覚するということは、それは限りなく使命の自覚に近いものです。アメリカの心理学者のウェイン・W・ダイアー氏が説く「聖なる意志」(『思い通りに生きる人の引き寄せの法則』)がまさにそれに当たると感じています。自分が超越潜在意識から個性として分化し、その個性を磨く過程で使命を果たしてゆくことができる。その時には自己確信と世界に貢献したいという気持ちが非常に強く湧いてきます。強い持続的な意志を感じます。自分自身を超越潜在意識から分化した個性として受け入れ愛している状態には強い自己信頼が伴います。(次回に続く・種村)

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自己特別視と依存の心理

自分を特別視して肥大した自我を持つ人には、しばしば依存心が見られます。
プライドが高く自分は特別にすごい人間だと、内心思っているのに、世間で通用するような実績や成果が出ないで屈折する人がいます。 素質を持ちながらも、この人の心理の奥に依存心が潜んでいて、それがその人の努力と成長を妨げているのです。
よくあるケースとして、生育過程でその人が親や祖父母から特別扱いをされ、それゆえに自己特別視と依存の心理が育ってしまう場合です。
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