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6月, 2014の投稿を表示しています

人格障害④・・適応戦略の観点から

1.生き残るための適応戦略として
人格障害を「生き残りをかけた適応戦略の産物だ」と考える心理療法の理論があります。認知療法です。
 認知療法は、心的な過程(認識し理解し行動する)を情報処理としてとらえるのが特徴です。環境からの入力情報を、選択・統合して、行動とする情報処理の仕方には、人によってそれぞれ特有のパターンがあります。これをスキーマと呼びます。スキーマとは、人がこれまでの体験の中で発達させてきた物事の受け止め方(認知)や行動様式のパターンです。
人格障害を持った人は、通常は本人にとって過酷な家庭環境で成長します。そのため人格障害の人は、偏ったスキーマ(認知とそれに基づく行動様式のパターン)を身につけています。それは過酷で歪んだ環境で生き残るために身につけたプログラムです。これは幼い時には生き残るために有効(適応的)でした。
しかし、新しい環境の中では、そのプログラム(スキーマ)は現実にそぐわない、適応するうえで不利な信念や行動戦略(方略)となってしまっています。しかし本人は過去に身につけたプログラムを変えられなくて、不適応を起こし苦しんでいるのです。これが人格障害です。

2.不適応な信念
 人格障害の人は、それそれ固有の特徴的な信念と行動様式を持っています。その一例を紹介します。

自己愛性人格障害の人は、「自分は特別であるから、特別扱いされなければならない」「自分は優れているから、人はそのことを認めねばならない」という信念を持っています。その信念に基づいて自分が優れていることを証明することに、命を燃やします。優秀性証明願望に憑りつかれます。
境界性人格障害の人は、「自分は価値のない人間だから、みんな見捨てるだろう」という信念を持っています。そのため見捨てられることを恐れて、死に物狂いにしがみつこうとします。その結果、相手は過重負担になり、結局は当人の恐れていた結果を招きます。
演技性人格障害の人は、「人から注目されなければ、私は無価値になる」という信念をもっています。その偏った信念に基づいて、誰かれかまわず気を引くような行動をとったり、貴族の末裔であるとか、同情を引く不幸な生い立ちを、まことしやかに、でっち上げてしまいます。
反社会的人格障害(サイコパス)の人は、「私は侵略者でなければならない。さもないと私の方が犠牲者になってしまう」「他人は搾取的であるから、私には彼らを搾取…

人格障害③…幼い自我と躁的防衛

1.幼い自我への退行と回復
 私たちは子どもの頃から、困難な事態に遭遇した時に、次のどちらかの態度をとります。
a)失敗したり叱られて、ふさぎ込み、自分の無力や非を認めて、落ち込む。
b)思い通りにならないとき、それを周囲のせいにして、欲望を満たしてくれない周囲を悪者にして、その悪者に対して敵対したり攻撃したりする。
 前者(a)は自己責任を認めますが、後者は全部他人が悪いとして絶罰的になります。これは、自我がまだ未熟な状態です。
 子どもが後者(b)の状態のときは、いつもの優しい母親のイメージが消え、目の前の「悪い母親」しか目に入らず、「死でしまえ」「だいっ嫌い」と本気で悪態をつきます。この子にとっては、欲求を満たしてくれるときは「よい母親」で、そうでない時は「悪い母親」であり、母親像が分裂しています。これは通常は授乳期に似られる状態で、未熟な状態です。
それが通常であれば、抑うつ的な段階を経て、次第に自我が成長していきます。
 見かけは大人であっても、自我が未熟な状態にとどまっていると、後者(b)が出てきやすくなります。そのために人格障害では、しばしばこの幼い自我の状態に退行します。そして、思い通りにならない相手を悪い人だと決めつけて、不利な状況を、自分ではなく相手や周囲のせいにしてしまうのです。

 「自己愛」が傷ついた状態(人格障害)の人は、相手が悪いと思うと、その相手の悪い側面を、まるでその人の全てであるかのように見て否定します。その人には、とても親切な良い側面があることを忘れてしまうのです。そして、一方的に相手を責めて、自分を振り返ろうとしません。これはとても未熟な心理状態です。
 これが成熟してくる過程では、人は自分の責任を自覚します。その為に一度は抑うつ的(a)になります。そして悲哀や罪悪感を味わいます。これを「悲嘆の過程」といいます。
 人格障害の人が回復にむかうときは、この「悲嘆の過程」を通過します。そして自分の嫌な側面や行い、自分に降りかかった哀しい出来事に向き合い、その事実を受け入れます。これは自分に向き合い、失われたものに対する「喪の作業」をするのです。
 こういう過程を経て心が成長すると、相手をよい面と悪い面の両方がある存在としてあるがままに受け止め、「全体としての相手」とつながりを回復することができます。これが成熟した姿です。

2.弱い自我の防衛である「躁的防…

人格障害②…自己愛の障害

人格障害は自己愛の障害である

 人格障害は「自己愛」の障害です。「自己愛」には様々な意味がありますが、一番大切なのは「自己愛」は「自分を大切にする能力」だという意味です。人格障害の方は、「自分を大切にする能力」が傷ついて、そこに障害を抱えているのです。
 「自分を大切にする能力」はいちばん基本的な能力です。これがあるから、人は自殺せずに、自暴自棄にならずにより良い人生を生きようと努力できるのです。ところが不幸にして「自分を大切にする能力」としての「自己愛」が適切に育っていないと、自分を大切にできないのです。
 人格障害の特徴である、自分へのこだわり(執着)、傷つきやすさ、信頼したり愛することの障害、そして無かの思考は、自己愛の障害によって生じ、増幅されたものです。言い換えると幼い自己愛に支配されているのです。

 たとえば、強い自己否定の感情に苦しむ人がいます(境界性人格障害)。これは「自己愛」が損なわれている証拠です。そうかと思うと、傷つきやすさや弱さを補おうと、「自己愛」が過剰に膨れ上がっていくタイプの人もいます(自己愛性人格障害)。
 実は自己愛性人格障害と境界性人格障害は、自己愛の障害の裏表の両面なのです。競争に勝ち抜いて自信たっぷりに振舞うことは「自己愛型防衛」と言われています。そういう態度をとることで、不安や欠点を見せないように防衛するのですが、それが成功すれば自己愛性人格障害に、破たんすると境界性人格障害に陥ることがあります。状況次第でどちらにも移行するわけです。
 実はさまざまなタイプの人格障害は、傷つきやすい自己愛のさまざまな防衛の形態であるといえます。そしてそれが失敗すると、境界性人格障害の様相を呈するようになるのです。
人格障害③幼い自我と躁的防衛
http://tanemura2013.blogspot.jp/2014/06/blog-post_28.html
<連絡先>
種村トランスパーソナル研究所
心理カウンセラー:種村修
℡:090-8051-8198
メール:tanemura1956@gmail.com

人格障害①・・・基本的特徴

1.人格障害とは何か

カウンセリングで対人関係の苦しみを訴える人の話を聞いていると、相手の方に人格障害が疑われる場合が少なくありません。
 そこで人格障害についてできるだけ簡潔に知識を持っていただくことが必要だと思うようになりました。
人格障害について知識を提供することで、多くの方に問題解決の糸口をつかんでいただければ幸いです。

人格障害とはわかりやすく言うと「人格の著しい偏りのために、自分自身が悩むか、社会が悩むもの」(人格障害の元の概念である「精神病質」の定義)といえます。
これを現代的に言うと、人格障害は、日常生活や社会生活に支障をきたすほどに、「著しく偏った、内的体験及び行動」を持続的に示す状態ということになります。
つまり人格障害の人は、認知と行動に極端な偏りがあるのです
人を信じるということについても、極度に疑り深いので伴侶も友人も信用できず、いつも裏切るのではないかと疑ってしまうタイプ(妄想性人格障害)がいます。
そうかと思うと、自分に自信がなくて、すぐに人を信じてしまい、相手にいいように利用されてしまうタイプ(依存性人格障害)もいます。
どちらもほどよい信頼と冷静さに欠けています。

2.人格障害に共通する特徴
 人格障害は米国精神医学会編『DSM-Ⅳ 精神疾患の分類と診断の手引き』に取り上げられているものだけでも10種類あります。これらの人格障害には、共通する次のような特徴があります。
①自分に強いこだわりも持っている。

人格障害の人は、すごく自分にとらわれています。つまり自分への執着が強いのです。その「とらわれ」は、一見正反対の現れ方をすることもあります。
・過剰な自信を持ち自慢好きである(自己愛性人格障害)
・自分は存在する価値もないという劣等感や自己否定をもつ(境界性人格障害)
 この両者は、どちらも自分へのこだわりが強く、自分のことばかり考えます。
②とても傷つきやすい。

 人の些細な一言を攻撃と受け取ったり、馬鹿にされたと思いこんでしまいます。しかも過剰に反応して、急に怒りだしたり、ふさぎ込んだりするのです。
 好意で注意したことを根に持って逆恨みするタイプ(妄想性人格障害)もあれば、反撃に出て暴力事件を起こすタイプ(反社会性人格障害)もあります。
いずれもその奥には、心の傷つきやすさを抱えています。
③全か無か、の両極端の思考をしやすい。

(投稿)息子との対話・・・自由の意味について

(紹介)「大」さんは息子さんとのスマホゲームを巡るやり取りの中で、自由の意味について議論されたようです。日常の中の親子関係。特に父親は思春期以降の息子に対して、社会に通用する価値観を教えてあげる必要があります。息子との心の対決を通して、それは伝わっていくものだと思います。父親として逃げていない姿勢に共感を持ちました。(種村)

(投稿)

1.自由を奪うのか
長男の期末テストの結果が返ってきました。
予想に反して、悪い結果でした。
本人は、毎度のテスト後の決まり文句で,「今日から心を入れ替えて頑張るよ。」といって、勉強を始めました。
「問題がないから、問題を作って。」と行ってきたので、ネットで適当な数学の問題をダウンロードしてあげました。
30分ほどしないうちに、「ちょっと休憩」といって、スマホをいじり始めました。
「もう終わりなの」という私の言葉に、「少し休憩だから、もう少ししたらやるよ。」とのこと。
私も自分の仕事をするために、別の部屋に行って、小一時間して戻ってみると、妻がかなり不満げな様子。長男は、ソファーで寝てしまっていました。
「いくら言ってもやらないし、結局そのまま寝ちゃった。しつこく言うと、なんで自由を奪うの?と文句を言われた。」と言っていた様子。
朝になって、長男に昨日の様子を話すと、長男は、「それよりも、スマホにゲームをダウンロードしてくれない?」と言ってきました。
当然のごとく、断固として断ると、「なんで、自由を奪うの?」と一言。
この言葉は、長男が自分の意志が通らないと、必ず発する言葉でした。スマホは、電話やメールをするために買ったから、ゲームはダウンロードさせない、と一貫して長男には伝えてきました。
いろいろと理由をつけて、ゲームをダウンロードするように主張してくるのですが、こちらは一貫してノーの一言。すると、いつものように、「なんで、いつもそうやって自由を奪うの?」の決まり文句。
2.自由を与える
そんな長男に言いました。

自由を奪ってるんじゃないよ。自由を与えてあげているんだよ。それも、将来に向かってのね。
君の言っている自由ってのは何だい?
自由って言うのはね、選択肢が増えていくっていうことなんだよ。
今回の期末テストで、このままいったら、自分が入りたい学校になんか入れないということがわかったよね。そういうことなのに、また懲りずに、ゲ…

(投稿)未来を創る7  心の統御

(コメント)これは準カウンセラーの「大」さんが、自らの心の井戸をほって汲み取った「心の統御」についての思想です。心の成長を志す人にとっては、非常に大きな示唆を与えてくれる内容だと思います。(種村)
(投稿)
道を開く鍵
道を開くカギは、心の統御にある
心を知ることが、心をコントロールすることにつながる
心をコントロールするということは、心を他人に明け渡さないことを意味する
心を自己管理の下に置くことを意味する

心を知るということは、意識とは何かを知ることにある
心を深く洞察し、意識を「客観的に」つかんでいくことだ
意識とは何かを知ることは、すなわち
自分の運命をコントロールできるということにつながっていく
自分の運命は自らが形作っている
自分の意識とは何かを知ることは、
自らの運命を自らの手で形づくることができる、ということだ
それは決して特別なことではなく
ごく当然にそうである、ということだ
要は、自らでコントロールできるかできないかの問題でしかない

ゆえに、未来を創るには、自らを知るということが大前提となる
自己を統御し、己の心を知ることに努めることだ

(投稿)未来を創る6  過去の清算

深層潜在意識の浄化
(コメント)
「大」さんはカウンセリングの過程で、深層潜在意識にある過去世の記憶がいくつか蘇ってこられました。それは強い情動を伴った記憶でした。どうやら過去世の記憶に迫害された経験の記憶がいくつかあり、それが彼の心を消極性、不安、自己信頼の欠如へと引っ張っていることが感じられてきました。もっとも彼の深層潜在意識にはこの対極ともいうべき智慧や繁栄の意識があり、それもカウンセリングの過程で姿を顕わしています。自分が望む未来を創造するには、そうした過去世の心の傷を癒し、本来持っているよきものを掘り起こす作業も必要な場合があることを、「大」さんの事例は教えてくれています。(種村)
(投稿)
過去世の記憶
私の過去世には,神を信じることへの試しという経験があったように感じます。神の教えを伝え広めたが,最終的には迫害にあって非業の死を遂げた,といった体験を,私の魂は幾度かしてきたようです。

1つは,日本での隠れキリシタンの踏み絵に代表される迫害,
さらに,古代(もしくは中世)ヨーロッパの宗教迫害
そして,預言を伝えていたときの迫害
このほかにもあるかもしれませんが,いくつかの迫害された過去を持っているように感じました。

たとえば,迫害を受けても,キリストを信じて殉教に身を投じることこそ尊いことであるという概念があります。そうであってこそ,死後に神近きところに行くことができるということで,キリストの後を追うように迫害を恐れずに殉教する聖者が過去におりました。彼らの尊い精神があったからこそ,キリスト教が世界に広がっていったのでしょう。

それに対して,私の過去世の場合は,全く逆のものでした。迫害された結果、神を信じることができなくなり,不安と恐怖に支配されながら,非業の死を遂げていった。
中世の時代には,兵士につかまり,引きずられながら,胸を刺されて死んでいった。
日本の迫害の時代には,踏み絵を踏んだ。
これには相当深い心の傷が残ったのでしょう。刺された部分は,今世の私の肉体にも炎症が出ていますし,右足には,いまだ踏み絵を踏んだ感覚が残っています。

そして,人を幸せにするつもりが,逆に不幸にさせてしまったという思いは,深く自分の心の傷として残ってしまいました。
自分を縁として,相手が不幸になってしまうのではないか,という不安が,いつも自分の中にあります。そして相手に不幸な事件が起きてしまったと…