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依存の信仰、否定の信仰について




依存の気持ちをもって神社仏閣、または教会に何度も参拝すると、依存の信仰ちが深まっていきます。それでもいいのでしょうか。
ここが信仰行為の難しいところだと思います。

神様や仏様の力に頼って何かを実現したいという気持ちは、誰しもあると思います。それが神秘の世界や人間を超えた世界に触れるきっかけになる限りでは、いいことだと思います。

しかし、それが一歩間違うと、依存する気持ちを増長させ、人間を弱くし、時にはずるくさせる恐れすらあると思います。
ご利益信仰と一般的に言われるものには、その危険性があるように思います。

ご利益信仰は依存の信仰です。依存の信仰が人間の成長にとって弊害となるのは、そこに否定が入っているからだと思います。

のりうつりを取りたいとおもってお参りする場合を見てみます。これは憑依しているもの、要するに憑いているものを取りたいという場合です。
これは憑いているものを否定し、憑かれている状態への否定もあります。
それのどこが悪いのかと思うかもしれません。
憑いているものがあるということは、それと波長同通している自分にも原因が必ずあります。憑いているものはそれを教えてくれています。憑依されている状態は苦しいでしょうが、その苦しみが自分の心の状態があるべき軌道を外れていることを教えてくれています。自分を見つめることを促しています。

つまり、自分を見つめさせ、自分に何かを教え、自分が本来の成長の軌道に戻るように気づかせてくれているわけです。それに気づき、自分を修正してこそ成長が始まります。つまり憑依の苦しみは、停滞を離れて成長の軌道にもどるためのきっかけになるものです。

その折角のきっかけを、何も変わらないままに、ただお祓いで取ってもらうだけなら、そこには依存があるだけで成長の機会を失うことになるのです。

貧乏なので金持ちにして欲しいという祈りはどうでしょうか。ここにも否定があります。まず貧乏な状態への否定があり、その奥にはお金がない自分への否定もあります。
自分が貧乏なのは、貧乏でそこから何かを学び、それを通して成長することを自分自身の魂が求めているのではないでしょうか。
貧乏だからこそ、いっそう努力するということもあります。貧乏をまねいている自分の考えや癖を直そうというきっかけにもなります。
また貧乏な自分を否定するということは、自分といういのちの尊さの否定です。自分がさまざまな転生で経験を積み、心を磨いてきた価値ある存在であり、その本質には神や仏につながるもの(超越潜在意識)を持っているかけがえのない価値があることを忘れています。

結局、現状が嫌なのでこれを神仏の力で変えてくださいというのが御利益信仰です。これは依存の信仰です。そして否定の信仰です。

憑依を自分が心を切り替えることで取るのは悪いことではありません。そこには否定はありません。しかし、誰かにとってもらいたいというのは、否定が含まれています。
憑依されてもはや自分を見つめることができない人が、神社でいったん憑依霊を取ってもらうことで自分を見つめ状態に変わること自体は良いと思います。しかし、取ってもらってすっきりしてそれで終わりということになると、せっかくの自分を見つめる機会を失ってしまいます。
すると少しも自分が変わらないので、そのうち同じ状態がまた来ると思います。同じ状態が繰り返すということは、それを通して自分を見つめ、自分の抱えている思いや行いの問題点に気づく必要が何かあるということを教えているのです。それを学び取って自分を変えるまでは、何度でも同じことが起きてくるものです。

悪いものを取り除く祈願も、それによって自分を深くみつめ、自分を変えていくためにするのであれば、問題はありません。きっと導きが与えられると思います。しかし、自分を見つめない、自分を変えようとしない祈願であれば、それはむなしい結果しかもたらさないと思います。

豊かになりたいという祈願でも同じことです。貧乏をまねいている心や生活習慣に気づき、自分を見つめて、自己成長につながるのであれば、それは好ましいことです。しかし、自分を見つめず、誰かに豊かにしてもらいたいというだけの依存の信仰だと、そのご利益信仰が成長を妨げるので、むしろ害になりかねないと思います。

否定を含んだ信仰には、自戒が必要です。
憑依霊を取ることは良いことだとだけ思っていると、憑依霊を否定し、憑依霊が教えていることに気づく機会を失います。
憑依されている自分を否定するのと、自己信頼を失い、自己の尊厳に気が付きません。また憑依されている人を否定すると、相手の人格の尊厳を見失って上から目線で憐れみをかけることになります。

私たちは誰しも、さまざまな経験を通して成長し続けている尊い存在です。どんな厳しい経験でも、それは自分の成長を促す何かを含んでいます。それを受け止め、自分を見つめ、そのことが我が身におきている意味を考えつかみ取るときに、成長が始まります。それが真の肯定です。
真の肯定の上にこそ、本当に人を幸せにする信仰があると思います。

このことは宗教の有無や宗教の違いは問わず、誰にでも当てはまることではないかと思います。

種村修(種村トランスパーソナル研究所・心理カウンセラー)
電話 090-8051-8198(午前830分~11時)

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自己特別視と依存の心理

自分を特別視して肥大した自我を持つ人には、しばしば依存心が見られます。
プライドが高く自分は特別にすごい人間だと、内心思っているのに、世間で通用するような実績や成果が出ないで屈折する人がいます。 素質を持ちながらも、この人の心理の奥に依存心が潜んでいて、それがその人の努力と成長を妨げているのです。
よくあるケースとして、生育過程でその人が親や祖父母から特別扱いをされ、それゆえに自己特別視と依存の心理が育ってしまう場合です。
ある男性の家系では、3~4代前のご先祖の当主が自殺したそうです。それまで栄えていた家は、そこから暗転し、それ以降は、家系には男子が恵まれず、産まれても育たずに早死にし、女性によって細々と血筋が守られてきました。 その男性は、この家系にようやく生まれ育った待望の男児でありました。 ですから、祖父母やご両親の愛情と期待を一身に受けながら、特別な存在として大切に育てらたのです。 この男性にとっては、自分は特別な存在であるということは周囲から植えつけられた、空気のように当たり前の固定観念でした。そして非常に大事にされて育ったので、自分は特別な存在だから愛される、愛されて当然の存在だという気持ちも無意識に育っていたのです。それは依存心につながるものでした。
こうした特殊事情がなくても、普通に長男としてその家に生まれ、祖父母が特別長男をかわいがる場合、よく似た現象が見られることがあります。
長男として生まれた男児を、祖父母が特別愛情を注ぎ、何でも先回りして世話を焼き、母親も同じように手をかけて息子を育てた場合に、それが生じます。
本人は、自分は特別であるという自己特別視を持っており、自分の価値基準に反する学友を蔑視しがちです。無条件に大切にされてきたので、愛されるのが当たり前だという気持ちがあり、人の感情に対して無神経になります。その結果、積極的に自分から人に関わるコミュニケーション能力が育たず、孤独で孤立しています。
彼には親や祖父母への依存心が根っ子にあるので、無意識に誰かが何とかしてくれるという気持ちがあり、自立してゆくための気力や努力が乏しくなります。「自分は特別だから愛され大切にされて当然だ」という思い込みがあるので、感謝の薄い、傲慢な人間になりやすいのです。また努力が乏しく、人の世話になることに平気です。
こうして「自分は特別の人間だ」という思い込みが、「肥大した自我…