1.欲望否定 宗教的な気質が勝っている人は、欲望に対して非常に否定的になりやすいようです 。 食欲、睡眠欲、性欲などは、思春期の頃は特に盛んとなるため、その頃から霊肉の葛藤を経験します。欲望が盛んになり、その欲望に引きずられることを自覚すればするほど、よけい肉体に対する否定感情が強く出ます。 禁欲的な宗教の影響を受けると、霊肉の葛藤が罪悪感を生み、そこから自己処罰の思いが始まることがあります。キリスト教を学び始めたころから、しばしば大病を経験したという話を聴いたことがありますが、これは私も経験しました。これは欲望への 罪悪感 が 肉体否定 、ひいては 自己処罰 につながるからだと思います。 こうして欲望の否定は肉体否定につながります。それはこの世的な生存形態の否定にまでいきつかざるをえません。突き詰めると最後は 死 です。死への希求が生じます。欲望の否定を目指す宗教では、極端な苦行を美徳とすることがありますが、これは最後には死に帰着します。 しかし、それではこの世で生きていること自体を罪悪視し、悪と見ることになるのではないかという反省が生じてこざるをえません。 神を信じる人であればあるほど、神がお造りになった世界を根源的な悪と見ることには、どうしても納得がいかないものを感じるでしょう。たとえそうした宗教と無関係でも、自殺に対して強い罪悪感や悲劇の感覚は誰しも持っています。このことから見て、この世的な生存形式の否定は、それ自体が冒涜なのではないかという疑念が生まれます。 うつに苦しむ人が自殺しないように周囲が努力する姿や、病魔に侵された人の回復を願う医師たちの努力が尊く感じるのは、この世的な生存には尊い意味があることを心の奥で感じているからに違いありません。 スピリチャルな経験を積んでいる救急治療の医師や精神科医の中には、魂の成長が人生の目的であり、この世はそのための修行の場であると訴えているひとがいます。私も同感です。 そもそもカウンセリングとは、心が成長することで困難を克服できることを信じ、カウンセラーがクライエントの伴走者となる営みにほかなりません。カウンセラーとしての立場からみても、心の成長の舞台であるこの世の生存形式を否定することはできません。 2.欲望肯定 どん底