私はかつて、自分の秘めている秘密を話そうとした時、これを話せば信頼関係が消えるのではないか、自分は孤独になってしまうのではないかという恐れをもっていること自分に気づきました。
その恐れの奥にある感情は、寂しさでした。自分が誰からも理解されなくなり、人が去り孤独になるときの寂しさだとおもいました。
でも、もっと深く見ていくと、寂しさには根っこがあり、その根っこは別の恐怖心につながっていました。
ここでは私の自己発見のプロセスを紹介します。
これが読者の自己探求のヒントになれば幸いです。
私は次のような問答(自己対話)をしました。
問掛「寂しいと感じる自分は、どうして寂しいと感じるの?」
返答「理解されないと寂しいと思う」
問掛「理解されないとどうして寂しいと思うの?」
返答「理解されないと孤独を感じるから」
問掛「なぜ理解されないと孤独を感じて寂しいの?」
ここで少しはしょりますが、こうした問答を繰り返しながらふと気づいたことがあります。
理解されない寂しさ。この寂しさを感じている主体は、本当に「自我としての自分」だろうか。そうではなくて、「本当の自分」が「自我の私」に理解されていないことを寂しく感じているのではないだろうか。
自分は自分自身のことを価値のある存在だと認めて、理解して、信頼してきたかといえば、そうではなかった。
「本当の自分」が、いつまでたっても私が理解してくれないことを寂しく思っているのではないか。その寂しさを私は感じ取っていたのではないか。
寂しさの奥には、気づいていない自分がいた。
それに気づいていないから寂しい。
気づいていない自分に気づけば寂しさは消える。
自分が気づいて欲しい、自分自身が寂しがっていることに気づいてほしい。
他人に気づいてほしいのではない。人に理解されたいのではない。自分が理解してほしいのだ。
そう思いました。
自分が自分に気が付かないでいた。
自分が自分を理解していなかった。
それを寂しさと感じていた。
だから理解していない自分がいることに気が付くと寂しさが消えていきました。
結局、寂しいという感情は、「気づいて」という潜在意識の声、いわば「本当の自己」からのサインであり、それをきっかけに自分を見つめることになったわけです。
自分が自分を呼んでいたのです。
「自分の価値に気が付いてほしい。価値ある自分を認めてほしい。」
そういう叫び声だったのです。
そうして自分が自分を認めてあげる必要があることを、はっきり自覚しました。
自分が自分の価値を見つけないといけないのだと、はっきり知りました。
最初に寂しさを伴って出てきた恐怖心は、人に突き放されることへの恐怖でしたが、それは寂しさの変形でした。
そしてその寂しさの奥には、もっと別の恐怖心があるようでした。それは、
「自分が自分に気づけないことへの恐怖」
「いつまでたっても自分が発見されないことへの恐怖」
「個性の価値に気が付かず、認めることができないことへの恐怖」
そういう恐怖心でした。
つまり「自分が見えていないことへの恐怖」がその正体だったのです。
おそらく過去世で、自分に気づけずに偽りの自分のまま暴走し、人に言われてはっとしてかろうじて立ち止まれた経験があるのではないかと感じました。
人が止めてくれたから暴走していた自分が止まることができた、そういう経験を過去世で持っていたのではないでしょうか。
だとすると、気づかせてくれる人が離れていなくなることは、どうしようもなく怖いと感じるはずです。
それは実は「自分が自分に気づけない恐怖」から、派生しているものです。
恐怖心と向き合うことは、本当に怖くて嫌なものです。
目をそらせたいもの、その筆頭が恐怖心です。
しかし・・・・、
その恐怖心から目をそらさずに、恐怖の感情をノックすると、自分を変え人生を推進してゆく力を得ることができます。
心理カウンセラー・種村修(種村トランスパーソナル研究所)
<連絡先>
電話 090-8051-8198
※メールによる相談を中心にカウンセリングを行っています。
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