スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

1月, 2014の投稿を表示しています

命の炎を燃やせ②-心を浄化する(2)

(前回から続く)
3.影の統合
私達は誰でも、「自分はこういうひとだ」という自己概念や、社会的な立場から「私はこういう人間だ」というペルソナ(仮面)と言われるものを持っています。それに合致しない思いは、否定して、なかったことにしてしまおうと無意識的に拒否したり、自分でも受け入れられるような解釈に歪曲してしまいます。
例えば、人を呪詛して呪い殺したいという思いが湧くことがあると、そんな恐ろしい自分を認めたくないので、それは私ではないと意識が否定するのが普通です。でも、殺したいほど人を憎んだことがないかと言われれば、そういえばあの時にそういう思いを出した自分があったと、気が付く場合があります。この場合、人を呪詛する心があるわけです。そういう自分があるということを認めるのが「潔く自分を受け入れる」ということです。これが自分だと認めることができると、それをコントロールしたり、どうしてそう思ったのかという原因を考え、修正し、そういう思いをコントロールすることはできます。
その時に、大切なことは、そういう嫌な自分を発見したら、それによって自分を責めたり、裁いたりしないということです。それは自分がそこから何かを学ぶ為に経験したことであり、そこで学んだ教訓を生かして、過ちを犯さない自分に変わればいいのです。決して裁かない心を持って、そうせざるを得なかった自分自身を受け入れるのです。その時には苦しみや悲しみや、そうせざるを得なかった事情があるはずです。それを受け入れ、丁寧にその時に起きた自分の感情や思考を辿っていくのです。そして、ここから出発しようと自分自身を受け入れるのです。
受け入れるとは肯定や正当化ではありません。自分を振り返り、「そこから何を学んだのですか」と自分に問いかけて、同じ状況が出ても、二度と同じことをしない自分になれるように思考や傾向性を修正するのです。
これを「自分に向き合う」とか「対決」と言います。特に自分自身に特徴的なマイナスの思いは「影」と呼ばれ、心を浄化していくプロセスでは影との対決は避けては通れません。その際に一番難しいのは、その影は自分自身であることを認めて受け入れることなのです。その時に、影は自分にとって必要なエネルギーとして、自分を害さない何かに変化します。これを統合の作業というのですが、影は自分の意識に統合されると、個性を支えるエネルギーとして働くようにな…

命の炎を燃やせ②-心を浄化する(1)

1.反省ということ
心の浄化において、一番大切なのは反省ということです。自分が過去において行い思い語ったことが、他者の視点から見たときに、その他者を苦しめなかったかどうか。また自分自身を傷つけたりすることがなかったかどうか。この二つを点検して、自分自身を振り返り、過ちがあればその原因を探り、修正してゆく行為が反省です。
 これは生涯に何度か振り返ってみる必要があると思います。というのは、その時点では良かれと思い正しいと信じて行った事でも、時間を経て振り返ると誤っていた点が見えてくることがあるからです。
ある宗教に入り、知り合いを勧誘していた人が、その時は善意のみで行動していたとしても、その宗教自体が間違ったものであったと気が付く場合があります。この場合は、その宗教を勧めた自分の判断が誤っていたことを素直に認め、どこがまちがっていたのか、その宗教のどのような汚れを身につけてしまったのかをつぶさに見つめ反省することは、とても重要です。そして過去の過ちを償う行為が必要になると思います。
 これは会社でもそうです。どの会社にも固有の価値観や行動原理があるものです。たとえば成果次第で高収益になるような営業会社の場合、顧客の利益にはならないことを知りながら、平気でうそをついたり、過大な宣伝をして商品を売る場合もあります。その場合、その会社には、相手を騙すことを正当化するような論理があるのが普通です。生活のためとはいえ、それを自分の価値観や行動原理の一部として取り入れてしまうと、毒水を飲み続けることになります。やはりきちんと過去を反省し、どこがなぜ間違っていたのか。それに染まったのはどうしてなのか。自分のどこを変えるべきなのか。それを振り返って、修正作業をする必要があります。
2.抑圧した思いに憑依される
 その時に、一番必要なのは潔(いさぎよ)さだと思います。これは自分だ、確かに自分はこれをした、そしてそれは人を傷つけたり、自分を堕落させる行為や思いだったと認めることです。そういうことをした自分を、それも自分だと受け入れることです。
私はこれは勇気がいることだと思います。それは自分の罪を潔く認め、これが私ですと告白して認める勇気です。潔く認めることができないと、その思いが潜在意識に抑圧されてしまうために、意識によって統御できなくなるのです。
 たとえば不倫をしてしまった場合、その奥に激しい性…

命の炎を燃やせ①-傷を癒す(2)

傷を癒す(2)
(2)心の底にある力
(前回から続く)
 結局私たちは、そういう経験をした自分を、自分自身が受け容れることができたときに癒されるのではないでしょうか。人に受け入れてもらう経験は、自己受容するための大きなきっかけになります。しかし、いくら人が裁かずに受け容れて理解してくれても、自分が自分を受け入れ、自分を許せないことには、癒されないと思います。それが癒しの鍵だと思うのです。
 では、自己受容はいかにして可能となるのでしょうか。それは、この世で生きてもがき苦しんでいる自分の心を、ありのままに見つめ、今ここが自分自身のスタート地点である、ここから出発するのだと受け入れることではないでしょうか。ありのままの自分を受けいれるとは、いまの自分自身をよく観察し、感じ取って、自分が、ここから出発しようとしているというスタート地点をまず受け容れることではないでしょうか。
 その時に、表面の自我意識だけでは、それをなしきれないことを私は知っています。もっと深いところにある意識、自我ではなく自己と言われる中心的な意識に触れてこそ、それをなし得ると思うのです。内側から癒す力が湧いてくるのです。自我ではなく自己に触れるときに、自分を癒し刷新していくエネルギーが湧いてくるのではないでしょうか。
 私は、その典型を哲学者の西田幾多郎氏の和歌に見ることができると思います。西田幾多郎氏は、大学入学寸前の長男を腹膜炎で亡くし、脳溢血に倒れた最愛の妻を看病の甲斐なくその五年後に亡くし、同時に病弱な三人の適齢期の娘を抱えて、孤独の中、悲哀の人生を送った時期がありました。この時に詠まれた西田幾多郎の和歌は、苦しみの深さを切々と伝えています。
運命の鐵(てつ)の鎖につながれてふみにじられて立つすべもなし
 しみじみと此の人生を厭いけり今日此の頃の冬の日のごと
 かくして生くべきものかこれの世に五年こなた安き日もなし
 ところが、こうした悲しみ苦悩のさなかにあって、西田幾多郎氏は、こんな歌も詠んでいるのです。
わが心深き底ありよろこびも憂いの波もとどかじと思う
 これは西田氏が参禅のなかで心の深い底にある「自己」に触れていたからこそ到達しえた境地だと思います。
 私は、丹田呼吸法、そして瞑想によって自分を深く見つめてありのままの自分を受け入れていく営みが、こうした境地へと私たちをいざなってくれると思います。私たちの心の…

命の炎を燃やせ①-傷を癒す(1)

傷を癒す(1)

「命の炎を燃やせ」というタイトルで、10回にわたって私の思想を書いていきたいと思います。これは私自身が経験のなかからつかみ取った思想であり、人生を復活させる思想でもあります。心理学の修行の中でつかみ取ったものを、シリーズで書き記し、読者のお役に立ちたいと思います。
(1)受容される時
 心は人生の中で、大きな傷を受けることがあります。人に愛を裏切られて捨てられた時、人生の夢が打ち砕かれて方向を見失ったとき、正しいと信じて飛び込んだ宗教が間違いだったと気づいた時、レイプされた恐怖の経験等。それらの経験は、いずれも大きな心の傷が生まれます。
 それよりもさらに大きな傷は、他の生命を害してしまった時です。小さい頃、犬の赤ん坊を虐待して殺してしまった記憶や、嫉妬していた弟を水辺でおぼれ死なせてしまった記憶。自分が取り組んだ政治運動で多数の死傷者が出た経験。自分のアドバイスで人が結婚に失敗したり、就職に失敗して不幸になったと知った時の負い目。自分の不注意で子どもを死なせてしまった後悔。人を害したことによる心の傷は、自分自身が害されたときよりも、何倍も深いといえます。それは深い罪悪感をともない、自己処罰の願望が生まれます。
 こうした心の傷を、どうすれば癒すことができるのでしょうか。心の傷は、それを癒さないでいると、いつまでも傷口からは膿が出続け、痛みが治まらないものです。
 心の傷とは何なのでしょうか。それは愛を裏切り期待を裏切って自分を愛してくれる人を苦しめたことへの後悔であり、人を傷つけその人の苦しみを感じ取った時の苦しみであり、自分自身が打ちのめされ、みじめになることではないでしょうか。
 私はその心の傷を癒す方法は、自分の心の中にため込んで封印してしまわずに、誰かに話して聴いてもらい、その時の自分の感情を理解してもらい、そんな自分自身を受け入れてもらう体験だと思います。決して裁かずに、そこから離れて立ち上がり、その中から何かを学び取って成長することを信じて聞いてくれる人に出会うことだと思います。ありのままの自分を理解し、受け入れ、愛してくれる存在に出会うことだと思うのです。
 そういう存在に出会うことは、誰しも願っても得られないと思うかもしれません。しかし、意外と私たちは、家族や友人、はたまた心理カウンセラーやカトリックの司祭などに出会い、聴いてもらう時に、癒されて…

呼吸法について

丹田呼吸法

呼吸法というのは、超越心理学(トランスパーソナル心理学)においては、基幹となるものです。心と体を整えるうえでの基礎だからです。
 呼吸で最も基本とするべきは丹田呼吸です。下腹部に腹圧を加えて丹田を動かしながら深い呼吸をするのが丹田呼吸です。釈尊が生涯実践された呼吸法であるアナパーナサチはこの丹田呼吸のことで、吐く息を長くし、吸う時には力を緩めて自然に息が入るに任せます。白隠禅師が禅病にかかり進退窮まった時に、師に教わって健康を回復し、その後の悟りを進めたのも、この呼吸法の実践をしたからです。
 丹田呼吸法というのは、体と心の健康の基礎になるものです。呼吸法には西洋と東洋で違いがありますが、呼吸法が心身の健康にとって重要であるというのは、西洋でも同じです。たとえば米国の代替医療の権威であるアンドルー・ワイル博士が自著の中で様々な健康法を紹介した後、「もしたった一つ健康法を選ぶなら、私は呼吸法をすすめる」と述べていることでもわかります。不思議なことに西欧の呼吸法では丹田呼吸法があまり説かれなかったのですが、近年は禅や上座部仏教などが米国にも広がり、マインドフルネス瞑想法という名前で禅的もしくは仏教的な瞑想法が普及し、そこでは丹田呼吸が指導されているようです。

丹田呼吸の身体への効用
 丹田呼吸の効用について、体と心の両面から説明したいと思います。
 丹田呼吸法をすると、まず下腹部から大量の血液が心臓へと送り込まれ、全身の血流が増大します。必然的に脳の血流も増加するため、頭の働きがさえてきます。また全身の血行が良くなるので、全身の細胞に新鮮な血液が多く運ばれ、新陳代謝が高まります。座って生活する現代人は、血流が滞りがちで、全身の細胞が弱まり高血圧にもなりやすいのですが、それが解消できるので血圧は安定します。また体温も上昇しますので、冷え性の対策にもなります。
 第二に丹田呼吸を繰り返すと、横隔膜が肺の空気を大量に押し出し、その分新鮮な空気が肺に取り込まれるため、新鮮な酸素が大量に肺に補給されるのです。その結果、血液に膨大な酸素が取り込まれて、全身に送られます。すると全身の細胞は二酸化炭素を排出し酸素を取り込みます。癌は血流が滞ったり、血中に酸素が欠乏すると起きやすいことが知られていますので、丹田呼吸を実践すると癌予防にもなるわけです。
 新鮮な酸素をふくんだ血流が全身を…

(投稿)「怒り」と「憎しみ」について

前回、「至高体験」について述べました。マズローの欲求段階でいう「自己超越」の段階です。
この境地に到ると、「怒り」や「憎しみ」とは全く無縁となります。
自他は一体であるという感覚をつかむことができるからです。
そして、「幸福感」と「感謝」に満たされるからです。
そこに「怒り」や「憎しみ」が入り込む余地は全くありません。

逆に、「怒り」や「憎しみ」から離れないと、「自己超越」の境地に到ることはできません。
そうしてみると、これらの破壊感情は、「自他を分け隔てた」境地の中で生まれるといえます。
また、これらの破壊感情を持つことで、さらに自他を分け隔てることになります。

この自他を分け隔てる感情は、「自我」とも言われます。
ウェン・ダイアー博士は、これを「エゴ」と呼びました。

要するに、「怒り」や「憎しみ」は、「自我」から生まれ、「自我」を増幅させる方向に自らの心を向かわせます。他のマイナス感情も同様であろうかと思います。
これらの感情を持つことに罪悪感を感じるならまだ救いはありますが、これらの感情を持つことを「正当化」してしまうと、大変危険な方向に自らの心を向かわせることになります。
まさしく、「悪魔の誘惑」といっても過言ではないでしょう。

「悪魔の誘惑」というのは、人々の「欲望を誘う」ということが代表的なものですが、この「怒りと憎しみを誘う」ことにも注意をしなくてはいけないと思います。
とくに「正義感」や「自尊心」などに訴えてくることがあるので、十分な見極めが必要です。

私達は「愛」と「調和」が、「怒り」や「憎しみ」よりも、はるかに価値があることを知っています。
自らの心境を高めるには、何を捨て、何を選ばなければならないかがわかるはずです。
自らの存在のみならず、他者の存在も尊重することの大切さ。
自分のみを益するのではなく、他者との調和を大切にしていくことの大切さ。
「愛する」気持ちをもったときに生まれる幸福感。